4  曲がり角の向こうでティナの声がした。しかし様子がおかしい。ユノが声に気づいて馬車を止めた。ハクトはユノに礼を言って馬車から下り、足を引きずりながら声の元へ向かう。  そこに広がる光景を見た瞬間、今度こそ状況はハクトの理解を超えた。  ハクトはひとつ深呼吸をする。落ち着け。  シアとハクトは、ミキの伝言に従ってリズを探しにきた。杖を片手に危なっかしく歩くハクトを見かねて、ユノが馬車に乗せてくれたのが先刻のことだ。それから真っ直ぐ、リズの家がある大通りへと向かった。大きな道は一本だから、まず行き違いになることはないと踏んで。  しかしどうして、そのはるか手前にあるこんなところにオースンがいて、悲鳴を上げるティナに銃を突きつけているのだろう。その向こうに立つ人影の顔は、暗くてよく見えない。 「フェルティナダ……?」 「来ちゃだめ! 殺されちゃうわ!」  さっぱり意味が分からない。どうしてオースンが自分を殺す必要があるのだろう。しかもオースンときたら、銃をティナの喉元に突きつけている。あのまま撃ったら、弾が貫通した時に自分が怪我をするだろうに。手つきの危なっかしさは決して安心材料ではない。慣れないうちは、思わぬ拍子に引き金を引いてしまうこともある。 「レイジ! ティナを放せ、何やってるんだ!」  叫んだのはシアだ。声にそこまで危機感が感じられないのは、銃の危険性を理解していないからだろう。彼女が先走らないか不安ではあったが、今はティナとオースンから視線を離せない。自分がいない間に、いったい何が起こったのだろう。 「放したいのはやまやまなんだ。シア、僕とひとつ取引をしてはくれないかな」 「取引?」  シアの眉がひそめられた。オースンの言葉の意味は分からなかったが、あまり好意的な発言には見えない。そんなことより銃だ。シアの言葉を信じる限り、この都には銃はないはずだ。そう考えるとおかしい。シアがハクトを拾ったように、オースンもどこかで銃を拾ったのだろうか。だとしても、使い方が分かるはずがない。それに水に沈めば火薬も湿るはずだ。 「そう。ティナとハクトを置いて、実家に帰ってくれないかな。そのまま、研究からも手を引いてほしい」 「どうして?」  シアが当惑顔で答え、ハクトに「私に、研究、やめる、ろ、って」と伝える。ティナがこちらを向いて頷いたので間違いないのだろう。 「その方が、君以外の誰にとっても幸せだからさ。ハクトとティナは言葉の通じるところへ行き、僕は自分の仕事を果たし、僕の仲間も霧が守られることを喜ぶ」 「ティナたちが? 本当に? ……もしそれが本当なら、話し合う意志はある。だからまずティナを放して」 「断る。それで、君の返事は?」 「条件が、二つある」  奥歯を噛みしめ、シアはうろうろと視線をさまよわせる。自分の都の言葉を喋っているのが嘘のようにゆっくりと、一つずつ単語を吐き出していった。頭の中で言葉を組み立て直す時間がある。ハクトには、その七割方を聞き取った自信があった。 「ハクトとティナが、ほんとうに言葉の通じるところに行くのかどうか、証拠を見せて。もう一つ、そう言うってことは、ハクトとティナの仲間が……霧の向こうの人がいるんでしょう。じゃあ、本当に霧の向こうには別の都があって、そこには塩がいっぱいあるの? 昔は全部、ひとつの都だったって本当なの? 答えを教えてくれるなら、私にはもう研究する意味がない。喜んで止めるよ」  驚いてシアの横顔を見つめる。オースンといいシアといい、本気か? 「ハクシャダイト、シアの仮説は本当よ。霧の向こうにはティナたちの故郷がある。こいつらも研究者で、しかも霧を越えられる。だから、ついて来れば帰れるかもしれないのよ。この銃がその証拠、分かるでしょ?」  オースンに小突かれたティナが早口に叫んだ。そして最後に、早口言葉のようにつけ加える。 「あなたの相棒もその仲間よ」  意味が分からず、ハクトはぽかんと口を開けた。シアの仮説は信ずるに足る。なにせ自分がその証拠だ。銃もその通り、持って来なければあるはずもない。なにせ二十年前に発明されたばかりの銃なのだ。銃把に巻かれた緑の革帯は見間違いようもない。  それにしても、なぜトウヤがここに? 「二つ目から答えていこうか。霧の向こうに都があるのは君も知っているだろう? 塩だってあるさ。霧の向こうには金と絹の都もあるんだ。都が一続きだったというのも勿論本当だけどね、口外したところで気がふれたと思われるのが落ちだよ。そもそも君は、僕ごときの言葉を信じるのかい?」 「証拠を見せて」  手を出すシア。オースンは困ったような顔でティナの喉から手を放し、髪飾りの珠をひとつ抜き取った。 「それじゃあ、こんなのはどうだい?」  白くて細い、労働慣れしていない指が珠を砕く。欠片が指の間から落ちるのと同時に、覚えのあるうす白いもやが、薄い帯のようにオースンの周りを取り巻いた。  その色には見覚えがあった。頭ではなく体が覚えている。霧の色だ。  シアも同じことに気付いたのか、口元に手をやって絶句している。  乳白色にも見える霧の帯は、オースンの指に収まった珠の周りを漂っている。ティナが顔をそむけ、彼の手から逃れようと身じろぎした。オースンは表情を変えずに、銃口でティナの喉を突く。咳き込む彼女の顎に珠を持った手を回すと、霧もそれにつれてティナの頬を撫でた。 「それ、まさか――」 「いい加減にしやがれ!」  シアの声を遮る、乱暴なラサ語があった。男の声だ。それも、聞き覚えがある。ティナが必死で伝えようとしたのはこういうことか。数歩先に浮かぶ白い顔を見ようと、ハクトは右目を閉じた。悲しいような、怒っているような、なにか激情にゆがめられた顔が見える。そのままふらふらと近づこうとした瞬間、ティナに向けられた銃口に気づき、足が止まった。  代わりに、彼の名を呼ぶ。 「トウヤ」  繁茂する柊。愛すべき盟友の名を。 「……んだよ」  返ってきた声には、鼻水をすする音が混じる。シアはトウヤの名を聞いて状況を察したようだったが、わけが分からないのはハクトと同じだ。どうして、とつぶやく。 「こっちの言葉、分かるのか」 「そりゃ、まあ……昔、色々あってね」  同じ学年だが、ハクトは十八、トウヤは二十歳。昔とは、彼の人生のどこかにある空白の二年間のことを指しているのだろう。ハクトは唾を飲み込んだ。  トウヤは涙声だが、そのために情けをかけることはない。いつものことだ。ハクトの方が泣き出したくなるくらい、いつものことだ。涙もろい割には、すぐにけろっとした顔で復活してくる。そうだ。男が泣いてどうする。 「霧、越えられるのか」 「僕が守ったからお前が生きてんだ。越えられるよ。そういう血筋だもん」  ふとオースンの顔に目を向ける。髪は確かに、トウヤに似た暗い色だ。茶色よりは灰色に見える黒い瞳も同じ。 「こいつとは親戚?」 「ずっと先祖まで辿れば、そうなんだろうね」  オースンが忌々しげに足元の小石を蹴飛ばした。  ふと振り返ると、シアが道ばたにかがみ込み、下生えの草をつまんでいた。何を、と言おうとしたその時、シアは一本の雑草の茎を掴む。ひときわ背が高く、ひょろりとした黄色い花だった。 「これだ!」  硬度鏡を下ろしていたら、精力の動きが見えたことだろう。シアの指先で何かがざわめき、そして突然体積を増す。あれは葉だ、と理解する前に地面が爆発した。唖然とするハクトの前で、ハクトの腕ほどもありそうな太い根が地面をかき分けて飛び出してくる。ユノの悲鳴が聞こえた。根はシアがいる場所から放射状に広がり、木々を揺らし、道路を寸断する。瀝青で固められていればまた違ったのだろうが、ただ踏み固めた土は、暴れ狂う根の前でむなしく吹き飛んで地面に溝を穿った。花術士の力だ、と気付いたのは一拍後、混乱に乗じてトウヤが駆け寄ってきたときだった。それと時を同じくして、ユノが悲鳴を上げて走り出す。林の中を突っ切って、彼方にある人家の灯りを目指して一目散に駆けていった。 「ティナ!」  シアがティナの手を握り、狼狽するオースンの腕からティナの体をもぎ取った。慌ててオースンがこちらに銃口を向けるが、引き金を引こうとしてその手が固まる。さては火蓋を開かずに撃とうとしたのか。その隙をついてシアは走り出す。後を追うハクトはなんとか馬車までたどり着き、シアに引き上げられ、背後のトウヤに押されて荷台に転がる。驚いて逃げ出そうとする馬を逃がすまいと、シアはその首を叩いている。背後で乳白色の霧が渦巻いた。さっきよりもずっと濃い。トウヤは腰から一丁の銃を取り出し、狙いも定めずに一発撃った。威嚇の効果はあったらしく、オースンが追ってくるまでに一瞬の間がある。 「ちぇ、外したか」 「当てる気だったのか?」  どうだろうね、とうそぶくその素振りがひどく懐かしい。まだ別れてから十日ばかり、目を覚ましてからはたったの五日だ。それなのに、もう一年も会っていないような気がする。 「乗って! あんたもよ!」  その言葉は乗車をためらうトウヤに向けられていた。ティナが「早くしなさい」とせかす。彼が荷台に飛び乗るのと同時に、シアは思いきり馬の横腹を蹴飛ばした。馬車が走り出す。 「ユノ、ちょっと借りるよ!」  事後承諾にもほどがある。遠くなっていくオースンの姿をしり目に、馬車は勢いよく畑の間を駆け抜けていった。馬を御すシアの手が汗で濡れている。だが何にせよ、とりあえず馬が走ってくれていることだけは事実だ。 「どこに行く気よ、シア!」 「知らない!」  シアの返事に舌打ちしてから、ティナはトウヤの腕を掴んだ。そこではじめて血の匂いに気付く。思ったよりも動転しているらしい。トウヤの左手首に巻かれた包帯には、じっとりと血がにじんでいた。すり傷などではない。彼が涙を浮かべているのは、再会を喜ぶせいばかりではないのかもしれない。 「あなた、霧を越えられるって言ったわね。オースンがいなくなったら、ハクシャダイトをヴァナに帰してくれる?」 「君のことを含めて、善処はする。だから放してくれないかフェルティナダ、痛いって」  馬車が右に曲がった。振り落とされそうになって、荷台の三人は必死に柵を掴む。シアはそんなことを意にも介さない。この先にあるのは、双子たちの家のくるみ畑だ。 「トウヤ、私と一緒に逃げろ!」  叫んだのはシアだ。身も蓋もないそのヴァナ語を聞いて、ティナとハクトは思わず顔を見合わせる。 「最初から、あの豚野郎の条件なんか呑む気はなかったの?」 「当たり前でしょ、研究は私の命なんだから。ここで研究をやめたら、私の人生お先真っ暗だよ! それにあいつ、絶対にティナのことをいじめる! その怪我、あいつにやられたんでしょう?」  トウヤの流暢なラサ語に戸惑いながらも、シアはやけっぱちのように叫んだ。ティナの代わりに、トウヤがハクトに会話の内容を伝える。しかし何という剣幕だろう。彼女の手から研究を取り上げたら、のたうち回って死んでしまいそうだ。ただし、きっと色々なものを道連れにしていくだろう。 「そ、そうだけど」  頬を押さえてティナが答えた。頬が赤くなっていることは知っていたが、銃に気をとられてそこまで意識が回らなかった。こうして改めて見ると、結っていた髪も乱れ、ひどい有様だ。ハクトの視線に気付き、ティナは不快そうに顔をしかめた。 「女を殴るのは悪いやつだ。いい女を裏切るのも悪いやつだ。だからリズを裏切ってティナを殴ったレイジは悪いやつだよ。そんなのにティナを渡せるもんか!」  哀れな馬は重い馬車を牽いてひた走る。勢いがついた車は止まらない。本調子でもないのに酷使した足が、今頃になってじわりと痛んだ。膝に力が入らない。  後方を振り返ったティナがトウヤの腕を引っ張る。彼女が指さす先を見ると、白い帯が空中を漂ってくるのが見えた。  違う、あれは霧だ。  両手を広げたくらいの幅になって、霧がやってくる。帯がそばをかすめると、木の葉が焦げるように枯れて落ちた。霧のそばに生える木々と同じく、枝が力無く垂れ下がる。ハクトは反射的に口を手で覆った。 「もっと飛ばせ!」  トウヤがラサ語で叫んだ。霧に触れた枝が変色していく。陽が沈んでいて助かった。未来の自分の姿かもしれないそれを、あまり直視したくはない。視線を下に戻せば、はるか向こうに馬を駆るオースンの姿が見えた。どこから調達してきたのだろう。しかし裸馬と馬車では、牽いている重量が違いすぎる。先に速度を落とすことになるのはこちらの馬だ。 「ビットクラーヤ! あなた、霧を操れるって言ったわね」 「言ったよ。あのうるさいのも今に散らしてやる」  トウヤは馬車の手すりに足をかけた。目で要求されたとおり、ハクトは腕を回して彼の体を支える。自動車や鉄道の発動機になら確実に用意されている、体を支えるための布帯はない。揺れる馬車の上で高い位置に手を伸ばすのは、危険を伴う行動だ。  懐から細い木管を取り出すと、トウヤはその端を噛みちぎる。吐き出した欠片は地面に落ち、あっという間に見えなくなった。 「だいじょうぶ、お前らを害するものじゃない」  中空の木管から、葉巻のように立ち上る白い煙、いや、あれは霧だ。トウヤは木管の反対端を噛みちぎると、その端に唇を添え、ふうと霧を吹く。ハクトはふと思い立って額の硬度鏡を下ろした。木片を硬木に変えるときのように、精気の明るい光が染み通っていく――木片ではなく、白い霧に。 「まさかそんなことで、霧が操れんのか? だって、そんなことができるなら、今頃……」 「僕にはできる。無事に逃げられたら、あとでゆっくり話すよ」  トウヤの唇から吹き込まれた精気が、闇夜の霧を明るく輝かせる。それは馬車を追う、大きいがぼんやりとした塊に突き刺さり、突然爆発するように広がった。通常の視界と硬度鏡越しの視界が重なって、まるで空中を光条が閃くようだ。至近距離で花火が爆発すれば、きっとこんな景色が見えるだろう。 「うわ……っ」 「離すな!」  その光景に引き込まれていたハクトは、怒鳴られて我に返る。煙管のように木管をくわえたトウヤは、ばらばらになった霧を、今度は吸い寄せていく。 「危ない!」 「僕にとって霧は毒じゃない。とりあえず頭下げてろ」  君も、とティナを肘で指すと、トウヤは再び馬車の後方に向き直る。 「ハクト、僕の右足に銃が吊ってある。抜けるか」  服越しに脛を触ると、確かに銃のかたちをなぞることができた。裾から手を突っ込み、長靴の鋲に留めてあった帯を外す。 「持っとけ」 「何丁持ってたんだ?」 「五丁。二丁あいつに取られた」  ティナの首に突きつけられていた銃を思い出す。あの分では、オースンが持っていても宝の持ち腐れにしかならないだろう。そういう意味では少し安心だ。 「こっちもあとで装填しないと」  腰帯に差した銃を肘で示すと、トウヤは大きく息を吸った。白い霧は今やトウヤの前で凝っている。馬車と同じだけの速度で向かってくるので、まるで勢いを感じない。じわりじわりと広がりながら、馬車との距離を詰めようとする。背筋が冷えた。 「捕まってたまるかってんだ!」  トウヤの叫びを合図に霧がうごめく。まるで白い大男が振り返ったようだ。大男は腕を広げてその場に立ち塞がり、やがてやってきたオースンの馬を抱きすくめた。オースンは霧を払ったが、密度の高い霧に抗しきれなかったのか、馬が明らかに速度を落とす。それでも走るのをやめないのは、霧を思い切り吸い込むことだけは避けられたからだろう。人間と同じだ。少しの霧なら、息苦しさとだるさを感じるだけですむ。  その隙に馬車はくるみ畑の中へ飛び込み、碁盤目に引かれた作業道路を北へ進む。  四人はてんでに座り込み、しばらくは口も利かなかった。シアは目をつぶって倉庫の壁にもたれている。月光が射し込んで、倉庫の中は意外に明るかった。  農繁期には野菜や木の実が積み上げられるであろう倉庫だ。今は床の半分ほどが見えていて、残りの面積はこれから使うらしい肥料袋が占めている。天井がやけに高く、大きな窓がしつらえられていた。風通しのためか、戸板はすべて外してある。トウヤが座る位置から見れば、丸い月が見えることだろう。しかし彼は月などには目もくれず、銃に弾を込め直している。そう言えば、さっき渡された方の銃はハクトが持ったままだ。  手が何かに触れる。拾ってみると、それは木箱の欠片だった。よく見れば、他にも農具や木箱が落ちている。武器になるかもしれないと思ったが、そこまで歩いていく気力もなかった。  ティナがトウヤに何か話しかけた。トウヤは不思議そうな顔でそれに答えている。二人を横目に、ハクトはシアの側にいざり寄った。シアが目を開ける。 「元気、ですか」  声をかけると、シアは泣き笑いのような表情を浮かべた。  そして次の瞬間、ハクトの胸に顔を埋める。  上着を掴むシアの手は震えていた。ハクトが自分の手を添えると、震えは少しずつ収まっていく。シアが小さくしゃくり上げるのと同時に、上着がじわりと湿るのを感じた。 「……ハクト」  言おうとしたその続きは嗚咽に埋もれる。触れている彼女の手が、やけにか細く思えた。硝子細工のごとく、抱き寄せたら壊れてしまいそうだ。力強く一輪車を押す、あのたくましい手とは思えない。  しばらくして、シアは「ごめん」とつぶやいた。  それ以上なにも言うことができずに、ハクトは黙ってシアの体を抱き寄せる。シアはほっとしたように体重をかけてきた。やわらかくて温かい背中が、呼吸にあわせて静かに上下する。  時が止まってしまえばいい、なんて、何年ぶりに思っただろう。 「幸せそうなところ、邪魔して悪いんだけど」  しかし実際には、たぶんほとんど時間は経っていなかっただろう。トウヤとティナの視線を感じ、ハクトは慌てて回していた腕を離した。 「別に、そのままでいいわよ」  ティナがつっけんどんに言った。泣いている女の子を前にそれはないだろうと思ったが、そんなことを言えば勢いで言い負かされてしまいそうだ。  やっぱりもう少し待った方がよかったかな、とトウヤがヴァナ語でつぶやく。シアが顔を上げ、涙と鼻水を袖でぬぐいながら恥ずかしそうにうつむいた。 「で、なに」 「あんたら、追われてるって自覚あるの? 何も分からないままに殺されてもいいんなら、これ以上言うことはないけど」  トウヤは憎たらしいほど落ち着いていた。まるでこれくらいの修羅場には慣れていると言わんばかりだ。長い黒髪を結い直す余裕まである。自覚がないのはお互いさまだ。  思わずため息をつく。これがあの、漂流船で震えていた男と同一人物か。今にして思えば、トウヤはあの時点でこの現状を予期していたのだろう。 「馬はへばって動かない。この倉庫は風も霧も吹き込み放題。あいつに追いつかれたら殺される。しかしなぜ殺されるのか分からない」  トウヤの顔には笑顔まで見える。言い終えたあと、間髪入れずにラサ語で同じ内容を繰り返した。寄宿舎では同じ部屋で、十五のときからずっと顔を合わせてきたはずなのに、こんなトウヤは知らない。ハクトが知っているのは、いい意味でも悪い意味でも小動物に似た、肝の小さいお調子者だ。  素人なら銃は一丁しか持ち歩かない。五丁準備してきたということは、連射することや奪われることを想定に入れていたことになる。想定していた戦いの相手は、よもや熊ではあるまい。  訝るハクトのことなど意にも介さず、トウヤは演説を続ける。 「あの豚野郎がそこの彼女を止めようとするのは、別に神の怒りに触れるからでも、研究成果を奪うためでもない。自分たちの都のことを知られたら困るからだよ」 「自分たちの都?」 「そう。深緑の都ラサ、紺碧の都ヴァナ。まさか世界にこの二つしか都がないなんて思ってないだろう? この大地の上にはたくさんの都があって、虹柱からそれぞれ違った恵みを得ている。気がついてるかどうかは知らないけど、花を使うのはラサ人だけ、硬木を使うのはヴァナ人だけ。ハクトに花は使えないし、シアに硬木は作れないはずだ。そして僕の父親の出身地、狭霧の都の民は、霧を操ることができる。だから僕は運良く、霧も硬木も使えるらしい」  ハクトの脳裏にシアとの会話が蘇る。それからもう一つ、ずっと忘れていた大切なことも。 「仲良しこよし、花のかんむり……か」 「うん、そうそう。意味はもう分かるよね。都は全部で十六あって、ラサもヴァナもその一つ。昔は一つだったからこそ、言葉だって通じるんだ。お互い、よく聞けば分かるだろう?」  仲良しこよし、花のかんむり。ずっとトウヤが目の前で歌っていた。どうして思い出せなかったのだろう。 「でもさ、もし霧を越えられるなら、みんな越えたいって思うだろう? 霧を守って毒をばらまく連中がいるって知れたら、僕たちはどんな目に遭うやら」  ラサに来てからの食事を思い出す。塩気のない料理は、塩を採るための湾がラサにないせいだ。きっと他の都だって、ハクトには想像もつかない世界に違いない。逆にヴァナにはこんなに豊かな農村はない。土が含む塩が野菜を弱らせてしまう。それに故郷には、硬木がある代わりに金属がない。わずかな金属は貴重で、鋳つぶしてはまた使われる。 「だから霧を越えられるなんて知られちゃいけないんだ。フェルティナダはとても運が良かったから、ハクトは僕がつい助けちゃったから、こっちに来てしまった。仕方ないだろ。親友が死のうとしてて、それを助ける力が僕にはあるんだ」  トウヤの顔から少しずつ笑みが抜けて、代わりにどこか悲壮な表情が浮かぶ。 「助けたって、どうせ殺されるって分かっててもさ、手が出るんだよ。その後だって、ハクトを助けようなんて大それたことを考えてしまった。あれは乱暴な警告で悪かったと思ってる。あの豚野郎に捕まりそうだったもんだから」  警告とは発砲のことだろう。トウヤはよろめきながら立ち上がる。その間にも、シアのためにラサ語でくり返すことは忘れない。ティナが彼の脇を支えようとするが、やんわりと断られる。 「ハクト、おまえ走れないだろ。フェルティナダと一緒に、ここで待ってろ」 「嫌だ、俺も行く」 「邪魔だ」  ぴしゃりと言われ、思わず口ごもった。思うように走れないのは事実だ。馬車が使い物にならない今、ついて行ったところで何ができるわけでもない。  シアを横目で見た。まだ目元が赤らんではいるが、泣いてはいない。ティナは思いつめたような表情でトウヤを見つめている。まるで息子を荒れた湾に送り出す母親のようだ。ハクトはトウヤの方に目をやる。彼は視線に気づくと、ついと顔をそむけた。 「いいじゃないか。少しくらい、いい格好させろ」  ぼそりとつぶやいて、トウヤは倉庫を出ていった。 「待って!」  シアが後を追う。それを分かっていたように、トウヤはシアに何か耳打ちした。シアはうなずき、トウヤとは反対の方角に走り出す。  後には、ハクトとティナが残された。 「フェルティナダ」 「どうしたの」 「さっきは、すみませんでした」  手の届く所にあった鍬を杖代わりに、ハクトは立ち上がる。 「さっきって、何だったかしら」 「銃の話。犯人がどうとか、くだらないことで騒いでしまって」 「ああ」  ティナは長衣の裾をふわりとひるがえし、ハクトの前でてのひらを合わせる。 「こちらこそ、ごめんなさい」  わずかに両手を持ち上げ、顎を引いて一礼。育ちの良さをうかがわせる、上品な仕草だ。どう返せばいいものかと戸惑っていると、ティナが小さく笑った。 「ヴァナじゃないんだから、あっちの礼儀なんて気にすることないわ」 「こっちの礼儀はもっと分かりませんけど」 「覚えればいいのよ。ビットクラーヤみたいに」  ティナは大きくのびをして、倉庫を出ていく。 「どこへ行くんですか」 「ティナ達もなにかしなくっちゃ。ハクシャダイト、いい案を考えてちょうだい」 「いい案……って」 「ビットクラーヤには霧がある。シアには花術がある。ハクシャダイトには硬木があるんだから、きっと戦えるはずよ。ティナにだって、きっと何かできる」  月光を浴びながらティナは振り返り、ハクトに手を差し伸べた。金髪と白い肌が、夜闇に明るく浮かび上がる。一瞬、彼女の姿が行燈に重なって見えて、ハクトは目を細めた。なにか生き生きした強い力が、内側から彼女を照らしている。 「だってティナには天下の強運が、ハクシャダイトには素敵な友達がついてるもの」  ハクトは鍬を突き、倉庫を出てティナの手を取った。しっとりと柔らかい温もりが、てのひらに感じられる。 「それもそうですね。……行きましょうか」  振り返れば満月。硬度鏡を下ろせば、火花のように鮮烈な光が飛び交うのが見える。広大なくるみ畑は、思ったよりも見通しがいい。  右側で閃いたあの光は、霧か、花術か。  霧を操るのは、硬木や花を操るのと同じことだ。自分から見て遠くにあるものほど、操ることは難しい。トウヤの説明を口の中でくり返しながら、シアはくるみ畑を走っていた。  振り返れば、背後に白いもやの塊が見える。やはりこちらを追ってきた。シアは安堵しながら、手近にあった木に手のひらを押しつけ、土の中の精気を送り込む。ほんの一瞬のうちに、木はねじくれながら数十年分成長し、夜空にその枝葉を広げる。根が土を砕く音は思いの外大きく、霧がこちらを追ってくるのは道理と言えた。  シアは再び走り出す。走れないハクトは、霧に襲われれば逃れる術を持たない。ティナだってまだ子供で、足もシアほどは速くないのだ。 「分かるよね」  倉庫を出るとき、トウヤはシアに囁いた。 「君しかいないんだ」 「大丈夫だよ」  何がどう大丈夫なのか、そんなことは分からなかったが、とにかくシアはそう答えた。 「自分でしでかしたことの後始末くらい、もう一人でできる」 「頼もしいね」  ばかだ、私は。息を切らしながら、シアは過去の自分に向かって悪態をついた。そんなはずはない。あの霧に捕まれば殺される。そんなシアの焦りを知っているかのように、霧はもったいをつけてシアを追い立てる。トウヤに言われた通り、シアは次の角を左に曲がった。  生きて帰らなければならない。ハクトとティナの面倒を見なければ。ぶつぶつとつぶやきながら走るシアの歩調が、少しずつ乱れ始めた。  闇の中に浮かぶ道路のほかに、もはや目に映るものも、耳に入るものもない。振り返れば霧があるはずだが、それを確かめることもできない。  ああ、私、ここで死んじゃうのか。  シアがつぶやくのと、倉庫の方で大きな音がするのは同時だった。  心臓に氷を落とし込まれたような息苦しさがこみ上げる。  振り返った。霧がゆっくりと速度を落とすのが分かる。こっちだよ、と木を膨らませても、もはや霧に反応はない。顔こそないが、霧はたしかに音がした方を見ている。馬のいななき声がした。  ハクト、逃げて。  言葉の代わりに、悲鳴が喉からほとばしった。  土に木の枝で引いた線は、思いの外はっきり見えた。月が明るいのと、目が闇に慣れたせいだろう。碁盤目に引いた線は畑の作業道路だ。ティナの言う通りに引いただけなので、本当に正しいのかどうかは分からない。  ハクトは顔を上げ、右目に映る光を確認する。左目が見る夜の景色に、硬度鏡越しの光が二重写しになる。二つの輪郭が重なる瞬間が好きだ。硬度鏡には双眼のものもあるが、あまり好きになれない。たとえ視力が落ちると言われても、やはり単眼鏡がいい。  土の上に描いた地図に、印がひとつ増えた。ティナが走り回る足音が、倉庫から漏れだしては広い闇の中に消えていく。  寄宿舎もジュレスバンカートの街も、深夜まで明かりが絶えることはなかった。ハクトは硬度鏡に覆われた右目を閉じる。ちらついていた光が消え、闇が大地を包み込む。南の虹柱も暗闇の中に融けて静かに眠っていた。右目を開けると、手にする枝が明るく光りだす。これもあの虹柱からの恵みなのか。鍬にも負けない強度を得た枝は、より深い線を土に穿つ。  ハクトはぐるりと周囲を見回した。開け放した二つの入口を通して、倉庫の反対側の景色も見える。木々の間に点々と残る明るい光が花術のもので、それを追うぼんやりとした光は霧だろう。霧は速度を落としていた。オースンからあまり離れることはできないのだろう、と見当をつける。光は作業道路を離れ、畑の中を右往左往する。そこから辿れるシアの移動は、倉庫から見て反時計回りの軌跡を描く。一方、反対側でたまに見え隠れする光はたぶんトウヤの霧だ。彼もまた反時計回りに移動している。挟撃、できるだろうか。トウヤがオースンの背後を取る前に、オースンがシアに追いついてしまう可能性もある。硬度鏡はシアが持っていた方が役に立ったかもしれない。迷わず駆けだしていったシアの背中を思い出す。今はどんな顔をして走っているのだろう。  ふところの銃を確かめる。弾は一発きり。振り返って、木箱を運ぶティナに声をかける。 「どうですか、フェルティナダ」 「こっちは平気よ」  軽くはないであろう木箱を平然と運びながら、ティナは小声で答えた。服についた靴痕が痛々しいが、本人は意に介する様子がない。そうこうするうちに、視界の右側で光が爆発する。またくるみが一本、異常な成長を遂げた。ティナ曰く、あれをやると近くの土壌がしばらく使い物にならないそうだ。オースンを誘うように、二倍ほどの高さになった木はねじくれながら天を指す。祭りの日、ろうそくを飾り付けたときのように、枝の先までが明るく光っていた。今度は左目を閉じる。精力の濃淡が陰影を描く。暗闇よりはわずかに明るい墨色の木々に遮られながら、輝く白い木がそびえ立つ。異常な濃度の精力を流し込まれた木の枝葉から、湯気のように光が抜けていく。 「できたわ。あとはお願い」  ティナが長い枝を手にやって来る。ハクトは鍬を手に立ち上がった。倉庫の中には他にも農具が置いてある。肥料袋の陰では荒縄がとぐろを巻き、そばには釘や金槌が無造作に置かれている。古い斧は薪を割るためのものだろう。金属製の工具がうち捨てられていることに、居心地の悪さを感じた。勿体ない。そんな感情でも突き詰めればずいぶんなものになるようで、だんだん気分が悪くなる。それらは言葉の違いよりも雄弁に、今いるこの場所が異邦であることを伝えてくる。  それにしても膝が痛い。どだいまともに走れるような状態ではなかったものを、酷使したのだから当然だ。それは馬も同じだろう。倉庫の横で棒立ちになっている馬は、叩いても蹴っても動かない。引く車が鉄塊に変わっているかのようだ。ながえを外せば歩き出すだろうか、と思ったが、裸馬になど乗れる気がしない。乗る機会がなかったのだから当たり前だ。故郷ではほとんどの用事は三輪車で事足りたし、遠出や荷物の運搬に使うのも自動車や機関車だ。かさばるものなら水路と機関船を使えばいいし、それでも運べないようなものは、どうせ馬を使っても運べない。  ティナに渡された枝に精力を流し込み、硬木に仕立てる。ティナの真剣な表情は本物で、枝を持つ手がわずかに震えているのが分かる。オースンから逃げているであろうシアのことを思った。間に合ってくれるといいのだが。 「本当に大丈夫なの?」 「さあ、分かりませんよ。幸運を祈っていてください」  腰帯に差した銃を抜き、火蓋の留め金を外す。銃把に巻かれた赤い革には、銘柄を示す杯の紋が焼き付けられている。ハクトでも知っている安物だ。火蓋の留め金は安全装置と言うには頼りないし、事故もよく報じられている。赤革杯印の銃をハクトに渡したあたりに、トウヤの性格が垣間見える。こんな時だというのに、笑いが込み上げてきた。  ティナが差し出したろうそくを受け取る。こんなものが倉庫にあるとは運がいい。ティナの強運を信じても良さそうだ。 「行きますよ」  杯印の銃は、つぶれた球体から柄と銃身が生えたような形をしている。全体は硬木でできていて、部品同士の噛み合わせは甘い。安全は使用者が確保するものであり、銃が用意してやるものではない、とは杯印銃の擁護者の弁だ。左側にある蓋を開け、折り取った枝を差し込んで固定する。そこにろうそくの芯を押し込んだ。  そのまま銃口を空に向け、引き金を引く。  きゃっ、とティナが叫んで耳を押さえた。どこか間の抜けた銃声は広い畑の中を響き渡る。暗くて分からないが、その音に反して、弾はほとんど飛ばなかったはずだ。火打ち石と火薬が生み出した力の大半は、左の蓋から噴き出してしまっているのだから。額の硬度鏡を下ろせば銃弾の位置を確認できただろうが、あいにくハクトの両手は塞がっている。しかしそんなことより、発射の反動で肩が痛むのが気になる。  背後で車輪が回る音がした。馬が一声いななき、車を引きずったまま信じられない勢いで走っていく。 「へえ、本当に燃えるんですね」  右手に銃、左手にろうそくを携えたまま、ハクトは小さく息をついた。赤革杯印の銃といえば、よく左の蓋から火が噴き出すと聞いている。ろうそくに移った小さな火は、小指の先ほどにふくらんで燃え始めていた。 「そんなことより、本当に走り出しちゃったわよ! 急いで」  ティナにろうそくを渡し、熱い銃身を腰帯に差し込む。ティナがハクトを引きずるように倉庫の中に入った。ハクトは硬度鏡を下ろす。ここから先は、三人の動き次第だ。白い木を辿り、大きな霧を捜し、小さな霧の気配を探る。硬度鏡の向こうで、シアとオースン、トウヤが動くのが分かる。こうもりは暗闇でも音で周囲を探る。見通しの悪いくるみ畑の中でも、ハクトは精力の光で周囲を探る。  オースンの霧が向きを変えた。二手に別れるようなこともなく、まっすぐにこちらに向かってくる。いや、馬を追っているのか。とにかく、これでシアから気を逸らしてくれればいいのだが。技師が一度に作れる硬木の量は技師の精力に依存する。花術士が育てる樹木の大きさは土地と術士の精力に依存する。おそらく霧を操る民も、無尽蔵に霧を操れるわけではないだろう。その推測が間違っているとしたら、もはやハクトに打つ手はない。  ふと、シアの声が聞こえたような気がした。ティナの声と木がはぜる音に隠れて、はっきりとは聞き取れない。だが、ハクトの気分を煽るには充分だった。屈託のない笑顔が脳裏によみがえる。たった数日の思い出が、取っ手を勢いよく回しすぎたからくりの影絵映しのように、忙しく脳裏をよぎっていく。  ティナが立ち上がり、ハクトの横に立った。片手をらっぱのように口元に当て、大きく息を吸う。 「こっちだ、ばかやろーうっ!」  霧がためらうように止まった。ティナがくすぶる枝を振り回す。その枝先では、中身を抜いた肥料袋が、枝と一緒に勢いよく燃えている。煙と炎と、なによりこの倉庫は遠くからでも見えるはずだ。少なくともティナがここにいることは、容易にオースンに伝わるだろう。  その隙にトウヤが動いた。とは言え、ハクトのように相手の位置が見えているわけではない。小さな霧は迷いながらもこの倉庫に向かっている。本人はそのずっと後ろだろう。 「シアより先に、ティナを殺せえっ!」  霧が視認できる距離まで近づいてきた。ティナは一歩後じさる。だが、それ以上動こうとはしなかった。即席のたいまつをかざしたまま、霧を睨みつける。ハクトは彼女の左手を握った。汗で濡れた手は、強くハクトの手を握り返す。  沈黙のまま、にらみ合いの時間が過ぎた。遠くで鳴った足音は誰のものだろう。シアならいいなとハクトは思う。シアの挑発は止んでいた。ティナの声を聞いて、意図を察してくれたのだろうか。彼女はこのまま、安全なところへ逃げればいい。きっとノッジやグレン家の主人が手を貸してくれるだろう。  逃げるな。ハクトは霧を睨みつける。ここでオースンがシアを追うようなら、二人がやってきたことに意味がなくなってしまう。花術を使うのをやめたシアの居場所は分からない。特に何もしなければ、生物が持つ精力の濃度は草木や水と同じだ。くるみの葉が視界を塞いでいなければ、目で見ることができただろう。  金属音まじりの荒い足音が、木々の間からやって来る。長い髪、派手な装飾品、外套のようにまとった霧。走り通しで疲れたのか、オースンの息は上がっている。息をつくたびに腕輪と髪の珠が音を立てた。彼はハクトの姿を認め、意外そうに眉を上げた。 「お前もいたのか」  ハクトは無言でオースンを見つめる。言葉の意味はなんとなく分かるが、答える気にはなれなかった。生木が焼ける臭いが鼻をつく。 「アガトゥスといい、ヴァナ人は自殺行為が好きなのか?」 「どこの人間だろうと関係ないわ。ティナはシアを助けたいだけよ」 「それが自殺行為だと言っているんだ。考えなしの馬鹿げた行動、と言い直してやろうか」  ハクトは倉庫を振り返る。ティナが一歩前へ出た。 「あんたみたいな、馬鹿でうぬぼれ屋でもてない野郎に言われたくないわ! 趣味も悪いし性格も悪い、あんたなんかに殺されたらシアが可哀想だもの!」  中空に漂っていた霧が、細い帯となってティナを取り巻く。ハクトはティナの肩を掴んで数歩下がった。霧はそれ以上追ってこない。余裕を見せつけるように、二人の目の前に留まっている。ティナは牽制するようにたいまつをかざした。 「なによ、あんたなんか霧がなけりゃ何もできないくせに。ビットクラーヤみたいに、自分の銃の腕で戦うくらいの気概を見せなさいよ! ばっかじゃないの!」  ティナの目に涙がにじむ。煙のせいか、霧のせいか、それとも。ハクトはもう一度、強くティナの手を握った。  酔ったような足取りで、オースンは二人との距離を詰めていく。膝が笑うのか、忌々しそうに舌打ちをした。いつも歌うばかりでは、農作業にいそしむシアに比べて体力も落ちるだろう。とは言え、足を痛めているハクトよりはよほど早く走れるに違いない。 「き、来てみなさいよ。あんたのその不細工な顔、焼き潰してやるから」  壁に立てかけた戸板に隠れるようにしながらティナは叫ぶ。不細工というのがオースンの気に障ったのだろう、彼は大股で近寄ってくる。その場で立ち向かおうとするティナを、ハクトは倉庫の奥へと引きずり込んだ。完全に戸板を盾にする格好だ。  霧使いと共に霧が倉庫の中に入り込む。生木が燃える臭いが強くなった。ハクトは鼻と口を押さえる。気休めのようなものだ。喉に思い切り吸い込めば、息が詰まって死んでしまう。二度目とは言え、さすがに腰が引けた。背後には倉庫のもう一つの入口がある。冷たい夜風が今ばかりは恋しい。 「どうした、ティナ・リチカート。僕と戦うんじゃないの?」 「そうよ! ち、ちょっと心の準備をしてるだけ!」  霧を吸い込まないようにしながら、ティナはやけっぱちのように叫ぶ。その頬を霧が撫でていった。小さな悲鳴が上がる。ティナの頬が、軽い火傷をしたときのように赤くなっていた。オースンが肩をすくめ、低く笑う。 「僕がそんなに愛されていたとは、光栄だね。ときに、後ろの衛士様はお飾りかなにかかい?」  歩を進めるごとに、装身具が足音よりも大きな音を立てる。彼はティナの不機嫌そうな表情をあざ笑うように、さらに一歩踏み込んだ。  ハクトは大きく息を吸う。 「ティナ!」  無意識に愛称を呼んでいた。ティナはそれに気づく様子すらなく、その声に応えてそばの戸板を蹴りつける。きしむような音がハクトの耳に届いた。ハクトはティナの手首を掴むと、間髪入れずに身をひるがえし、背後に開いた戸口から外に飛び出す。 「何を――」  言いかけたオースンの頭の上から、大量の木箱が降ってくる。  一瞬、オースンの姿が木箱に隠れて見えなくなった。  ほぼ同時に、戸板の影から火の手が上がる。 「行くわよ!」  ティナが足下に伸びていた荒縄を引いた。  木箱と共に、今度は重い肥料袋がなだれ込む。木箱をはね除けていたオースンは、今度こそ土と木箱の山の中に埋もれた。木箱の山の中で霧がうごめき、それに伴うように火の手が強くなる。ティナは手の届くところにあった木箱に火をつけた。 「霧は硬木の硬度と難燃性を失わせます。あんたが近寄ると、火は木切れに燃え移るんです」  聞こえてはいないだろうし、聞こえたところでオースンにヴァナ語は分からないだろう。 「死ぬまで出てこないでください」  ハクトがつぶやいたその時、叫び声と共にシアが木陰から飛び出してきた。涙を袖でぬぐいながら、ティナとハクトをまとめて抱きしめる。 「ばか! 騙されタじゃないか!」  そしてティナの手からたいまつをもぎ取ると、動き始めた木箱の山に投げつける。火の手はすでに床から壁に燃え移り、木造の倉庫を焼き払おうとしていた。 「は、ハクト達が、あいつ、殺すとは、思わなかっタ。ゴメンナサイ、わタし達が、もっと上手くできれば……」  しゃくり上げながら、シアは燃えさかる倉庫に目をやる。梁を残して東側の壁はずいぶん燃えて、屋根がゆっくりと傾いでいく。じきに崩れるように見えた。 「やめてください。そんなことより、シアが無事で良かった」  シアはハクトの笑顔をじっと見つめ、悲しそうに目を伏せる。自覚はないが、うまく笑えてはいないのだろう。安心させようと思ったのに、どうやら逆効果だったようだ。 「結局、僕の出る幕は全然なかったってことか」  呆れたような声はトウヤのものだ。片手には銃と一緒に、数本の木管を携えている。まだあったのか、とハクトは口の中でつぶやいた。 「相手はどうあれ、人殺しをするような顔には見えないんだけどね、お前」 「正当防衛だ」  吐き捨てると、トウヤはぽんとハクトの肩を叩いた。 「まあ、結局はただの事故だしね。気に病むなよ、非常事態だったんだ」  軽い口調でそう言って、トウヤは肩をすくめる。同胞であるはずのオースンについて、恨み言のひとつも言う気配はない。視線すら、そちらに向けたくはないようだった。代わりにハクトが燃える倉庫を見る。オースンが姿を現す気配はない。怨嗟の声すら聞こえない。  疲労のせいか、ティナがぐったりとその場に座り込む。シアも「ひどい、騙されタ」とぶつぶつ言っていたが、やがてその小言も止んだ。  ひときわ大きな音を立てて、倉庫の屋根が落ちた。火花が夜闇を明るく照らし出す。炎はたまに爆ぜながら、静かに梁を舐めていた。  一度だけそちらに目をやって、トウヤは目を閉じる。息を整えて目を開けると、南の空の、虹柱がある辺りを向いて顔をしかめた。 「都は、永遠に生きる」 「何か言った?」  彼がつぶやいた言葉はハクトの耳にも届いたが、意味はよく分からない。  ただ、あまり彼に似合う言葉だとは思えなかった。  煙が目に染みたか、硬度鏡で覆われていない左目の視界が涙でにじんだ。炎に照らされて、トウヤの顔の半分は明るく照らされている。 「なあ、トウヤ」 「どうしたの」 「狭霧の都って、いいところ?」  時間割を確かめる時のように尋ねると、彼はいつものように少し考えて、編んだ長い髪をいじりながら答える。 「ヴァナよりは過ごしやすいよ。何でもあるしね」  相棒はかげりのある表情で、面倒くさそうに笑った。 「……でも僕は、ヴァナの方が好きだったかなあ」  おまけのように付け足して、トウヤはその場に腰を下ろす。銃を置き、細い木管を指でもてあそび始めた。世の中、何が武器になるか分からないものだ。トウヤにかかれば銃よりも恐ろしいであろう霧の管を見ながら、ハクトはため息をついた。右目を覆う硬度鏡を、意味もなくいじる。まだ先の長い夜の闇に、きらりきらりと光が舞った。 「俺、お前が相棒で良かったと思うよ」  手を伸ばし、緑革の銃を拾った。ハクトの記憶が確かなら、まだ弾は込められているはずだ。 「なんだよ、いきなり」 「今言っとかないと、言えなくなりそうだから。本当に、本気でそう思ってるんだ」  銃把に巻いた緑の革は、しっくりと手に馴染む。杯印銃の赤革とは大違いだ。ここまで差が出ることがむしろ興味深い。 「本当だからな」  銃声一発。  トウヤが右胸を押さえる。 「……心臓なら左だよ、ハクト」  女二人があっけに取られた顔でこちらを見ている。口を開こうとしないのは、何が起こったのか理解できていないからだろう。ひょっとすると、先刻からこの場に満ちている、ほのかな霧のせいかもしれない。 「疲れてんじゃ、ないの?」 「お前こそ。硬度鏡の前で霧を使うな。丸見えだ」  掲げたトウヤの手から、砕けた数本の木管が落ちた。 「あはは、忘れてたよ」  言葉に呼気が混ざる。傷口を押さえる手は既に真っ赤で、袖口にも上着にも大きな染みができていた。 「それも事故かな。いや……」  立ちすくむハクトの前に、トウヤは血がついていない方の手を差し出した。 「お前を信じた僕が馬鹿だったのか」 「お互いさまだろ」 「確かにね……」  ハクトはその手を取り、トウヤの傍にかがみ込む。トウヤは相棒から目を逸らし、呆然としたままのティナに笑いかけた。 「君は本当に、運がいい……きっと、神が君を生かしているんだ」  トウヤはハクトの肩にもたれかかり、それでも喋るのをやめない。額に脂汗が浮いていた。ハクトは反射的に口を開く。 「ごめん」 「こちらこそ……馬鹿で、ごめん。でも、僕は、やっぱり……」  その先は言葉にならない。トウヤはハクトを押しのけるようにして地面に横たわった。  余力さえあれば、きっと猫かなにかのように姿を消すに違いない。  最後まで、小動物めいた印象のある男だった。  硬度鏡に映るものが信じられず、ハクトはしばらくその場にうずくまっていた。  異変に気づいたティナに促され、重い腰を上げる。その時にはすでに、息苦しさを覚えていた。だがそれ以上のことはなく、歩を進めるにつれて呼吸は楽になっていく。  乳白色の濃い霧が、トウヤの体を包み込んでいた。  それはまるで彼の死を待っていたようだった。霧の民なりの、あれは棺なのかもしれない。  虹が闇から浮かび上がり、朝日がその光をのぞかせるころになって、倉庫を全焼させた火は消えた。  火を吹き消した風は、そのまま霧の棺を吹き散らし、後には塵も残さなかった。