3  シアにとって、本業は農作業ではなく研究らしい。向かいに座ったシアの顔をちらりと見上げると、彼女は真剣な顔でハクトの手元を見つめていた。机上に広げた大きな紙に、ハクトは地図を描いていく。請われるままに西区や都の全図を描くのだが、記憶はあやしいものだ。シアは以前ティナが描いたという地図を持っているのだが、頼んでも見せてくれない。先入観なしで描けと言われても、ハクトには大まかな街の位置と、湾の形と川の流れくらいしか分からない。  ティナの叫び声が聞こえたのは、ハクトが紙の上で筆をさまよわせている時だった。 「危ない!」  声にわずかに先行して、耳をつんざくような爆発音と共に居間の窓硝子が割れた。格子の一画分、すっぽりと硝子が抜け落ちる。ほぼ同時に、奥の壁に吊してあった工芸品の人形が砕けた。空気を切る、鞭をふるう時に似た音が鼓膜を叩く。目の前で、シアが小さな悲鳴と共に頭を引っ込めた。 「シア!」  椅子から腰を浮かせる。シアは耳を塞ぎ、目を閉じて背を丸めていた。怪我をした様子はない。ティナがシアに駆け寄り、「だいじょうぶ?」と声をかけた。 「私は平気だけど、何なの、今の音? 爆発かなにか?」 「銃……みたいでしたが」  ティナがためしにヴァナの言葉で「銃」と言ってみるが、シアはきょとんとしている。ティナが遠回しな説明を始めた。いつも分からない言葉はこうして伝えているのだろう。 「持ち手のついた筒があって、そこから火薬を使って、すごい勢いで小さな弾を発射する武器よ。狩りの時なんかに使うの。知らない?」 「さあ、狩りの時にはふつう、罠や弓矢を使うから……」  ハクトは壁に近寄る。人形の腰から下を砕いた何かは、壁にめり込んで亀裂をつくっていた。銃の使用目的として真っ先に狩りを挙げるあたりに、ティナとの間の階層差を感じる。銃は人を脅す時に使うものだとばかり思っていた。おそらくヴァナに住んでいたら、彼女とは言葉を交わす機会もなかっただろう。 「シア、何か細長くて硬い物はありませんか」  少し考えてから、シアは「箸」と答えた。それでいいか、とハクトはティナに箸を取ってくるよう頼む。ティナが持ってきた箸の先で、少しずつ壁の穴を押し広げていった。しばらくそうしているうちに、ハクトの手の中に小さな塊がこぼれ落ちる。 「銃弾ですね」 「間違いないと思うわ……でも、これ」  それを見たティナの表情が硬くなる。ハクトの額の硬度鏡を指さし、ティナは命じた。 「ハクシャダイト、それで見てみて」  首をかしげながら硬度鏡を下げ、手の中の銃弾を見る。ハクトの手を示すぼんやりとした光から浮かび上がるように、まぶしいほど明るい光が見えた。硬木だ。 「硬木よね?」 「はい」  ハクトの手が震える。ただならぬ二人の様子に気付いたのか、シアがゆっくりと近寄ってきた。その顔には、まだ恐怖心が見てとれる。 「どうしたの?」 「硬木なのよ」  ティナが短く答えた。 「こっちの人は、硬木なんか使わないんでしょう? これ、木でできてる。銃弾を普通の木で作ったらきっと焼けこげるわ。ラサの人なら、金属で作るはずよ」  それじゃあ、とシアは口元に手をやる。ゆっくりと振り返った。視線の先には、一角を切り取られた窓がある。 「これはヴァナ人がやったってこと?」 「そういうことになるわね」  窓の穴からは傾いた太陽の光が差し込んでくる。橙色に染まった部屋の中で、三人は言うべき言葉を見つけられずにしばし立ちつくしていた。 「あ、良かった、生きてる!」  いつの間にか廊下に立っていた少女の声を合図に、ハクト達の時間が再び動き始める。いつも通りの赤い服を着た、これは双子の妹のメグだ。ティナが「どうしたの?」と声をかけ、ハクトは銃弾をふところにしまう。シアは割れた硝子を片づけ始めた。 「母さんが、変な音が聞こえたから見てらっしゃい、って」 「気にしないで。ちょっと花術に失敗しただけだから」 「やっぱりシアのせいなんだ。分かった、母さんに言いつけてくる!」 「音は大きいけど、本当に大したことじゃないのよ。馬を驚かせたんなら謝るわ」  メグは「合点承知!」と言い残して走っていった。いつもながら小回りの利く娘だ。ティナの例えではないが、メグが姉の分まで動いているような気がする。足して二で割れば、ちょうど一人前だ。 「そうだ、シア」  玄関を出ていったはずのメグが、すぐさま引き返してくる。ハクトは一度は取り出した銃弾を再びたもとに押し込んだ。 「これ拾ったの。落とし物じゃない?」  彼女は上がりかまちのすぐ向こうに立っている。こちらに伸ばされたメグのてのひらの上には、小さな金属片が乗せられていた。玄関に出ていこうとするシアについて行く。一拍遅れて、面倒くさそうにティナが顔を出した。  その正体に思い当たった瞬間、ハクトはメグの名を叫んでいた。シアを押しのける勢いでメグの元へ駆け寄る。ほんの数歩の距離が長く感じられた。怒られるのかと、メグが体をこわばらせる。ハクトはそんな彼女をかかえ上げ、きつく抱きしめた。 「ありがとう!」  慣れないラサ語は、きちんとメグに伝わっただろうか。ずっと抱いていたせいで、彼女の表情を確かめることはできなかった。腕をゆるめると、メグは戸惑いの色を浮かべながら金属片を差し出す。ハクトはそれをそっとつまみ上げた。そうしなければ砕けてしまうとでも言わんばかりに。メグは一つ頭を下げて、「じゃあ、わたしはこれで」と踵を返す。去っていくメグに、ハクトは目礼した。  金属片は、長方形の角がひとつ取れたような台形をしている。そこに刻まれているのは文字だ。裏には、それが布地に取り付けられていたことを示すごく短い針。その針を受ける皿はなかったが、これは確かに記章だ。 「ジュレスバンカート市立技師学校、機械科」  表面に刻まれた文字は、よく見慣れたものだ。これと同じ物が三年間も自分の服の襟についていたのだから間違いない。ハクトは文字を辿る。最後に刻まれているのは、記章の持ち主の名だ。頭文字だけだが、間違えるはずもない。 「ビットクラーヤ・アガトゥス」  愛称である、トウヤ・アガトゥスの名の方が耳慣れている。だから頭文字が違うことに一瞬戸惑ったが、記章の名が本名で表記されることを思い出した。ハクトの場合は頭文字が変わらないから、普段は気にも留めなかった。 「……トウヤ」  すべての状況が、記章の持ち主がトウヤ、すなわちハクトの相棒であることを示している。相棒であり、親友であり、そしてずっとその身を案じ続けてきた相手だ。 「生きてるのか」 「ハクシャダイト、落ち着いて」  ティナの鋭い声が思考をさえぎった。切れ味のいい包丁のような声が、ハクトの頭の中にあるふわふわしたものを切り裂いていく。 「ビットクラーヤはあなたの友人だったわね。彼の記章がここに落ちていて、ここから銃弾が発砲されたっていうんなら、つまり……」 「犯人はトウヤだ、って?」  その言葉をティナに言われたくはなかった。急いで先回りしたハクトの言葉を、ティナは肯定も否定もせずに受け流す。その声にとがめるような響きを感じて、ハクトは眉根を寄せた。二人の間に流れる剣呑な空気に気付き、シアが会話に耳をすます。彼女を一瞥すると、ハクトは口早に否定の言葉を口にした。もちろんヴァナ語だ。シアに聞かれたくはなかった。 「ですが、撃ってくる理由がありませんよ。鳥が空を飛ぶのと同じくらい」 「でも鳥は空を飛ぶわ。理由だってある。きっと人に食べられないためよ。霧よりも、人のほうが恐ろしかったんだわ」 「そんなのは憶測にすぎません」 「ビットクラーヤがシアを襲わないっていうのも、ハクシャダイトの憶測よ」  シアを。ティナのその言葉を聞いて、ハクトは額の革帯を押さえる。そうだ。その誰かはハクトを襲ったわけではない。あくまでシアの家に銃弾を撃ち込んだだけだ。そしておそらくその誰かが、トウヤの記章を落としていった。  記章が落ちていたからといって、トウヤが生きていることにはならない。シアがハクトを拾ったように、その誰かがバティの岸を探り、トウヤの記章を見つけただけかもしれない。しかしそうだとしたら、今度はそれがトウヤの生存を否定することになりかねない。拡大鏡の縁に指を這わせた。冷たい金属の上を、指が自然な円弧を描いて滑る。陶製では細かな部品が噛み合わないし、硬木製では硬度鏡に余計な光が入る。だから硬度鏡の部品には金属が最適だ。 「俺は」しぼり出すように、ハクトはうめいた。「落ち着いてます」 「でも……」 「フェルティナダは、トウヤを犯人にしたいんですか」 「違うわ。撃ってくるくらいだから、お友達じゃなくてほかのヴァナ人なんじゃないか、なんて思ったりもするけど、それもおかしな話よね。ティナが言えるのは、まだ何も言える段階じゃない、ってこと。それから、ビットクラーヤが味方とは限らないってことかしら」  ハクトの顔から視線をはずし、彼の手中にある記章をにらみながらティナは言う。弁解めいた響きのするその言葉を聞きながら、ハクトはわずかに眉をひそめた。  ハクトの胸ほどの高さに、うなだれたティナの頭がある。どうしたらいいんだ、とハクトは心の中でひとりごちた。これでは、まるでこちらが悪者だ。シアの目つきが、心なしか非難の色を帯びている気がする。 「ハクト、それ、何?」  シアがのぞき込んでくる。何とか説明しなければならない。ごまかすのは得策ではない。ティナの視線に追い立てられるようにハクトは口を開いた。 「俺の学校の生徒であることを示す記章です。ここに役人文字で入っているのが名前。俺の友人、トウヤの名前の頭文字です」 「名前が似てる他の人のものじゃなくて?」  そう言われて目をこらしてみても、見つかるのはシアの仮説を否定する証拠ばかりだ。入学年が記された部分はこすれて傷がついているが、文字は容易に読みとれる。常用文字ではなく音を示す役人文字で書けば、トウヤの名の頭文字は珍しいものになる。名の意味は柊、そこから音を拾った愛称に込めた意味は鏃。植物の名は、男名にするには珍しい。男女比をとれば男のほうがずっと多い技師学校で、同じ頭文字を持つ人間の顔は思いつかない。  ハクトが首を横に振ると、シアは腕組みをして考え込む。 「あのときバティに流れ着いたものを、全部集められたわけじゃないからね。誰かがこれを拾うことはあるだろうけど……なんでここに落ちてたのか、それが問題だな」  シアはティナとはまた違う方向に思案を巡らせているようだった。考え事の邪魔をしてはいけないのかと思いながら見ていると、シアは「分からん!」と叫んでハクトの手から記章をもぎ取った。発音の怪しいヴァナの言葉で叫ぶ。 「おまえは、悪い子だ! 出てきタ、良くない! ハクトに謝る、なければならないよ!」  真剣な表情で叫ぶ仕草がおかしくて、ハクトは思わず吹き出す。ティナも苦笑いしていた。シアはなおも記章を叱りつけている。 「ティナ、怒らないのデスか? これ、きっと、イリーダ奇書だよ!」 「イリーダ奇書?」  首をかしげたハクトに、ティナがすかさず説明する。 「あるはずのない場所にあるもののこと。イリーダ奇書っていう本があってね、空の星座を書いた本なんだけど、霧の端っこからでも見えないはずの星座が載ってるの。最近こっちではいい望遠鏡ができて、地平線のすぐそばの星を、霧を透かして見ることができるようになったそうなんだけど……」 「そうして初めて見えたはずの星が、その本に載っていた、と?」  ティナはうなずく。そんな話は故郷にもあったが、しょせんは噂の域を出ない。イリーダ奇書とやらも、実際に目にしたことがある人間がいるのだろうかと疑問に思う。 「そんな気持ち悪いものと一緒にされてるんですか」 「ハクシャダイト」  記章をにらみつけるティナの声は冷ややかだった。初めて会った時、帰るのは諦めろとハクトに告げた、あの時の顔に似ている。年齢に似つかわしくない顔だった。 「忘れないで。こっちの人たちから見れば、ティナたちはそれ以上に気持ち悪い存在よ」 「わ……分かりますよ。そんなに怖い顔しないでください」  シアが困り顔で記章をさすっている。汚れは一度拭き取られたあとだった。荒い布で拭いた痕跡が金属片の上に残っている。硬木を扱う以上、身につけるものにはむやみに硬木を使えないから、少々値が張っても記章は金属で作らねばならない。そう乱暴に扱うなと言いかけて、こちらでは金属など大して珍しくもないことを思い出す。  ほんの一瞬、静寂がするりと家の中に入り込んできた。静寂のほうが、扉のかげでつけ入る隙をうかがっていたかのような頃合いだった。その静寂の正体を確かめようと玄関扉を見て、はじめて扉が開いたままであることに気付いた。  扉を閉めようと玄関に近づいたハクトの耳に、何かを引きずるような音が聞こえた。物音は家の前を通る道から草の上を通ってくる。何事かと顔を出そうとしたとき、物音の正体が喋った。 「シア、もう一つ拾ったの! もらって!」  玄関から顔を出し、メグの足元にあるものを見て、ハクトはあんぐりと口を開ける。のんびり歩いてきたシアが、ハクトを突き飛ばしてメグの元に駆け寄った。言うべき言葉を見つけられず、酸欠になった魚のごとく口をぱくぱくさせている。  さもありなん。  メグが引きずってきたのは、一人の中年男だった。 「落ち着いて、よく聞いてよ、メグ。落とし物をみつけたら、まずはお母さんに言うんだよ。うちはごみ捨て場じゃないんだからね」  中年男は気を失っている。男を地面に放り出したまま、シアは我にかえるなり説教を始めた。その内容がずれているように感じられるのは、決して文化の差のせいではない。 「じゃあ、やっぱりシアの落とし物じゃないんだね」 「落とさないよ、こんな大きいもの!」  大きさの問題ではないだろう。ハクトは中年男のそばにかがみこむ。ティナが男の顔を見て口元をおさえ、小さく声を上げた。 「ハクシャダイト! こいつ、駅の帽子男じゃない?」 「さあ、顔は覚えてませんよ」 「間違いない!」  目を閉じたまま規則的な寝息を立てている男を、ティナはつま先で蹴飛ばした。布靴でそんなことをすれば足が痛いだろうと思いながら見ていると、案の定ティナは足首を回しながら悪態をつき始める。  かたわらでは、シアがメグへの説教を諦めていた。 「で、どこで拾ったの、これ」 「あの畑の中。道から三本行った列の、あっち側の木の根本に落ちてた」  メグが向かって右手にある小さなくるみ畑を指さした。彼女の家が持つ広大な畑には及ぶべくもないが、それでも木々が一定の間隔で立ち並んだ、いっぱしの畑だ。何となく言いぐさがひどいように聞こえるのは、ティナの通訳のせいだろうか。 「うちの畑か、なら仕方ないや。とりあえずうちで保管しておくよ。目が覚めたら自分で帰ってもらおう」 「うん、お願いね。人手がいるなら呼んで、たぶんいつものように兄ちゃんが飛んでくるから」  何かというといつの間にか顔を出しているユノのことを思い出した。そういえば馬車での送迎にしても、あれは彼の方から言い出したことだ。シアとしては、あの手押し一輪車で広い道まで歩いてから、あらためて乗合馬車をつかまえる心づもりだったのだから。彼は大人にも受けがよさそうな闊達な少年だが、誰にでも慈善事業をかって出るほどのお人好しではないだろう。 「大丈夫。……ハクト、これ運ぶ、て、手伝い、手伝お、あれ、手伝え?」 「手伝え、ですね。分かりました」  シアはほっとしたように笑い、中年男の両脚を軽々と担ぎ上げた。 「ひどいわ。ティナ、もしかしてイリーダ奇書に好かれてるのかしら」  ハクトが寝ていた、どころかそもそもはシアのものであった寝台の上で、中年男は穏やかな寝息を立てている。二人の見ていない隙に鼻をつまんでみたが、目を覚ます気配はない。砂まみれになった薄手の外套を脱がせると、下には青みがかった白の服を着ている。脚衣は外套と同じ黒だ。刺繍こそ入っていないが、どことなくオースンの服と同じ匂いがする。およそ土が似合わない。だからこそ、男が地面の上でのびているのは奇妙な光景だった。 「どうしたんですか、フェルティナダ」 「怪我がないのよ。たんこぶ一つ見つからない」 「それが何か?」  シアが水を汲みに行った。それに気をとられているうちに、ティナはためらいもなく男の頬をつねって見せる。それもひねりを加えて、爪の痕が残りそうなほどに強く。止める間もない早業だった。もとより止めるつもりもなかったが。 「じゃあ、この人はどうして起きないのかしら」  男の寝息は揺らぐこともなかった。発動機が置かれた紡績工場のように、規則正しく呼吸を繰り返している。胸がわずかにふくらみ、そしてゆっくりと息が吐き出される。ひげは朝剃ったばかりといった様相だ。ハクトが五日ぶりに目を覚ましたときには、決して毛深いほうでもない顔にもずいぶんとひげが生えていた。このまま眠り続ければ、男もいずれああなるだろう。 「疲れてるんじゃないですか?」 「本気で言ってる?」  投げやりなハクトの声をつかまえて、ティナは鋭く投げかえしてきた。そんなティナを見ながら、根が真面目なんだろうな、とハクトは思う。彼女のほうこそ、すぐに疲れてしまいそうだ。 「ご想像におまかせしますよ。その人だって、倒れた原因が空腹じゃないとは言えないでしょう。財布は持っているんですか?」  ティナは無言で文机の上を指さした。そこには、男の外套や脚衣から勝手に拝借した小銭や武器が置かれている。護身用と思しき短刀に、故郷のものとそれほど変わらない小銭。もしやと思って探してみたが、銃はない。皮の財布をみつけて開けてみる。ティナがのぞき込み、「お金は持ってるのね」とつぶやいた。 「行き倒れじゃなさそうよ」 「じゃあ、霧の毒とか? まさかね、ここは霧からはずいぶん遠いはずですし」  ハクトが肩をすくめたまさにその瞬間、「霧の毒!」と叫ぶ声が聞こえた。シアが水桶を片手に戻ってくる。台所の水瓶で汲んできたものだ。 「霧の毒、わタし、疑う、ているよ! でも、その人が霧の毒は、なぜか、分からない」  ティナは迷いながらも、その怪しげなヴァナ語を翻訳した。ラサ訛りのヴァナ語も、慣れれば聞き取れるものだと補足する。 「シアも霧の毒を疑ってる。でも、どうしてそこの人が霧の毒を吸ったのかが分からない」  ティナの通訳に礼を言うと、シアは男の唇に指をかけ、汚れるのも構わずに口を開けた。自分の体で影を作らないようにしながら、喉の奥をのぞき込み、何かを確信したように頷く。それからティナを手招きし、何事か言いながら男の口を指さした。ティナは口臭から逃れるように身を引き、顔をしかめた。 「喉が腫れてる。ハクシャダイトを最初に見つけたときの症状に似てるわ。やっぱり、霧の毒なのかもしれない」 「風が強くても、ここまでは霧は流れて来ませんよね?」 「来ないよ。そんな危ない土地だったら、怖くて住んでられないもん」  諦めてこちらの言葉で答えながら、シアは濡らした手拭いを男の額に乗せる。意味があるのかどうかはよく分からないが、何かせずにはいられないのだろう。 「銃は持ってないんですね」 「奪われたのかもしれないよ。あんなすごい武器なら、みんな欲しいだろうし」  改めて男の所持品を見てみる。硬度鏡を下ろしてみても、硬木の光は見あたらない。銃を持っているならば、銃弾も持っているはずだ。あるいは、それも奪われたのか。 「この男が銃とビットクラーヤの記章を持ってきて、発砲して、記章を落としたとでも言いたいの?」 「発砲したのはこいつで、こいつから銃を奪って記章を落としたのがお友達かもしれないよ。霧の毒に似た何かを使って」 「そ、そうですよ! それなら辻褄が合います。トウヤはただ、この怪しい男から銃を奪っただけかもしれません」  通訳したことを後悔するように、ティナは小さくため息をついた。シアの仮説に寄りかかったハクトは、その糸口を離そうとしない。 「好き勝手な想像したって意味ないじゃない。どうせこの人が目を覚ませば、全部分かるに違いないわ。それまで待ちなさいよ」 「彼が目を覚まさなかったらどうするんですか? イリーダ奇書だなんて言って何も考えないより、よほどましでしょう」  ティナは小さく首を振って、寝台のそばから離れた。 「だったら二人だけで考えてよ。ティナはもう通訳なんかしたくない」 「待ってくださいよ、フェルティナダ……」 「よく耳をすませれば話せるはずよ。ティナは通訳なしでやったんだもの、ハクシャダイトにできないはずがないわ」  ハクトの言葉を遮り、ティナはそう吐き捨てる。握ったこぶしがかすかに震えていた。 「ティナはね」  ラサ訛りの入ったヴァナ語。こちらで長く暮らすうちに、身に付いてしまったのだろう。 「ハクシャダイトに、よけいな希望を持ってほしくないの」  その意味を問いつめる暇もあらばこそ、ティナは足音を鈍く響かせながら廊下を駆け、そのまま玄関を飛び出していった。  道のわだちを追いながら、ティナは街の中心部に向かって歩いていた。二輪馬車の通ったあとと、一輪車の浅いわだち。分かれ道に来るたびに一瞬足を止め、それからまた何かを振り切るように歩き出す。  ハクトが来てからの寝不足と疲労も手伝ってか、その足取りはどこか頼りない。ハクトに周囲の言葉を伝え、周囲にハクトの言葉を伝える作業は、少女の双肩に重くのし掛かっているようだった。眠るハクトを初めて見た時の浮き立つような表情も消えて、代わりにどこか老成した雰囲気が顔を出す。 「どうしてこうなるのよっ」  鼻の頭が赤い。目の端からこぼれようとする涙を袖で拭いた。  あの家で、ハクトは数日間眠り続けていた。服と拡大鏡から技師であることは分かった。髪は茶色で、短く刈ったのを放っておいたら伸びてしまったといった風情だ。長髪を厭うのが、いかにも今どきの若者らしい。身長はわりあい高い方だろう。年齢を聞かなければ二十歳過ぎの大人に見える。筋肉はそこそこについているが、決して筋骨隆々と呼べるほどではない。  ぐず、と鼻をすすった。端から見れば、転んで膝をすりむきでもした子供に見えるだろう。 「いじわる。ずるい」  つぶやいた声は、口の中だけで消える。  そこでやって来る人影に気づき、ティナは再び涙と鼻水を袖で拭った。 「おや、今日は一人かい?」  正面から歩いてくるのはリズだ。服はいつもの紫色。最近はオースンと共に見かけることが多かったが、今は一人だった。「ええ」と答えて、涙を見られないようにうつむく。 「シアちゃんと喧嘩でも?」 「違うわ。ちょっとね」  リズは行く手をふさぐように立ち塞がる。横をすり抜けようとすると、太い腕が腰に回される。抱き寄せられると、きつい香水の匂いが詰まりかけた鼻の中に押し入ってきた。甘ったるい花の匂いだ。 「そういう時は、おいしいものでも食べて落ち着くといいわ。うちにおいでなさい、煮込みが出来てるころよ」  悩んだ時にはおいしいものを。その教えを忠実に守っているのであろう、ふくよかな体躯。ずいぶん傾いてきた太陽に目をやって、ティナは小さくうなずいた。  鍋の中には、翌日の三食までまかなえそうな量の煮込み野菜が入っていた。これを食べた上で、また飲みに行く先の食堂で食べるのだから、この体型もうなずける。ずいぶん前に子供たちが都会に出ていったという家は広く、玄関脇の一部屋はこれから改装でもするのか、床板が外されていた。ちなみに花術士の能力は農業だけでなく建築の世界でも重宝される。安く家を建てるためには、家を支えるために太い蔦を壁面に這わせることが不可欠だ。手っ取り早くその蔦を育てるには、花術士の力を借りるのがいい。寿命の長さと値段を天秤にかけてみても、やはり花術士の手を借りた方が安上がりだ。 「すぐにレイジが来るわ。あたしはこのあとちょっと出掛けてくるけど、好きなだけ食べてちょうだい。飲み物やお手洗いの場所はレイジが知ってるわ。玄関そばの部屋は、危ないから入ったらだめ。気が済んだら帰って、ちゃんと仲直りするんだよ」  レイジの名を聞いて、わずかにティナの表情が曇ったが、鍋からたちのぼる美味しそうな香りには負けた。 「ありがとう……すごく、嬉しいわ。ハクトには、あとでちゃんと謝る……」  鼻をすするティナに、リズはちり紙の場所を教えた。 「やだね、そんなに小さくならなくてもいいんだよ。うちの子が泣いて帰った時にも、まずはたらふく食べさせることから始めたもんさ」  ちり紙の箱を抱え込むティナ。リズはかがみ込み、同じ目の高さでそう言って笑う。きゅっと小さな目が細められた。ティナもつられて相好を崩す。 「本当に、ありがとう」  頭を下げたティナに鍵の場所を教えると、リズは手を振って玄関を出ていった。  いちばん多い時で四人の家族が暮らしていた家は、シアの住む家よりひとまわり広い。玄関にかけられた表札は、リズの亡夫と二人の子供の名前が記されたままだ。きれいに片づけられた机の上に深皿を置いて、さじで一口すくう。よく煮込まれた野菜が舌の上でほぐれた。 「なにをやってるんだろう、ティナは……」  誰にともなくつぶやきながら、深皿をすっかり空にする。もう一杯、と手を伸ばしかけたところで、何かに弾かれたように立ち上がった。あまり長居すると、オースンと鉢合わせすることに気づいたのだろう。  玄関脇の部屋を覗いてみると、床板は一抱えほどの大きさにばらされ、奥の壁に立てかけられている。暗くて輪郭はぼやけていたが、厚い板に穴が空いているのが辛うじて分かった。いぶかりながらも、教えられた通りに玄関の内扉を出て、そばの壁にかかった書をめくる。その裏には鍵が隠されていた。いいのかな、とつぶやきながら内扉の鍵をかけ、鍵を戻して外へ出る。  大通りのはずれにあるリズの家を出ると、あとはシアの家まで、畑の中を道がくねりながら進んでいく。点在する林に視界を遮られながら、ティナは夕暮れの道を歩き出した。太陽は山のすぐ上、霧の壁にその身を半分沈めている。  一番星がまたたく空を見上げ、ティナは大きく伸びをした。軽い足取りで進みながら、小さな声で歌い出す。林の中へと足を踏み入れると、歌声は自然に大きくなっていった。 「仲良しこよし、花のかんむり  虹のくさびを 打ちこめば  すっかりばらばら 十六本」  シアには何度も聞かされた歌だ。その曲に乗せて、ハクトから聞いた通り、故郷の歌詞をつけていく。 「ひとつひとつを――」  土を踏む音を聞いて、ティナの歌が止まった。 「あれ、僕のことなんか気にしなくていいのに」  訝しげな顔で振り返ったティナの、その目が大きく見開かれる。  どこから現れたのか、一人の青年が立っていた。  その右手に、拳銃を携えて。 「な」  なんなの、あんた。  ラサ語でつぶやいてしまってから、ティナは悔しそうに顔をゆがめる。 「だいじょうぶ、分かるよ」  かけられたその言葉は、忘れるはずもない故郷の言葉だった。  夕陽の最後のひとひらを浴びて、青年の姿が浮かび上がる。歳は一見するとハクトと同じくらい。黒い髪をひとつに編んで、背中に流している。人なつっこそうなその顔は、しつけのよくできた大型犬を連想させた。  黒い犬は、銃口をティナの胸に向けたまま尋ねる。 「君は?」 「フェルティナダ・リチカート」  せいいっぱい胸を張って、正式なラサ名を名乗った。名に込められた意味は、健やかに育て我が娘。 「ああ、これは奇遇だ」  わずかに引きずりながら足を踏み出し、ティナとの距離を詰めながら、男は笑う。 「僕はビットクラーヤ・アガトゥス」  ヴァナ語で告げられる名の意味は、繁茂する柊。男名としては珍しいから、前に聞いたその名を忘れるべくもない。 「会いたかったよ、フェルティナダ。ハクトが世話になったね」  トウヤ・アガトゥスはかがみ込み、左腕でティナの体を抱きしめた。  眠る男を前にして、ハクトとシアはしばし無言だった。  先に沈黙を破ったのはシアだ。 「追いかける、ない、の?」 「分かりません」  ティナは何を言っているのだろう。どうして怒っているのだろう。追いかけてもいいのだろうか。かえって怒らせてしまうだろうか。 「難しえ、い、ね」 「そうですね。難しいです」  言葉が通じるならば、シアに相談したかった。どうすればいいんだ。今の、このことだけではない。これまで何をすべきだったのだろうか。これから何をすべきなのだろうか。  ラサとヴァナの言葉は、まったく違うわけではないが、すんなり通じるほど似てもいない。シアの話が本当なら、霧の向こうには他にもいろいろな都があって、きっと少しずつ違う言葉を話しているのだろう。  一度は男に落とした視線を上げる。ティナもこうしてハクトを見ていたのだろうか。何を知っているのか、起きたら何を聞こうか、と考えながら。シアはハクトの視線を受け止めて、困ったように微笑んだ。敵意はない、怒っていないよと示すように。 「シア」  言葉がつたないのはお互いさまだ。よく耳をすませれば話せるはず、というティナの言葉を思い出す。相手は同じ人間だ。たぶん。やってやれないことはない。 「ティナは、最初、どうやって話しましたか」 「……黙っていタ、よ」  つたないラサ語の質問に、シアはヴァナの言葉で答えた。二人は顔を見合わせて苦笑いする。シアは改めて、ゆっくりと自前の言葉で話し始めた。 「ティナは口を利かなかった。話してくれるまで、半月かかったんだ」 「どうして?」  推測であることを断った上で、シアはぽつりぽつりと話し始める。 「たぶん、分からなかったから。ハクトには、ティナが言葉を教えた。ティナに向こうの言葉で教えてくれる人は、いなかった。私にも、ハクトの言葉は分からない」  できるだけ簡単な言葉を選んでくれているのだろう。聞いたことのある単語が多い。そういえば、とハクトは振り返る。ティナの訳語とつき合わせたからこちらの言葉も少しは分かるが、いきなりこちらの言葉だけで話しかけられていたら、未だに会話などできなかっただろう。 「ティナはたぶん、自分がどこにいるかも分からなかった。怖かったと思う。色々あったと思う。私には、話してくれないけど」  だから、とシアは首を傾げた。髪が肩から束になって落ちる。なめらかとは言い難い髪質だ。 「ハクトはたぶん幸せなんだよ。私が言っちゃいけない、かもしれないけど。最悪の中では、いちばんましなところにいると思うんだ」  最悪の中のいちばん上。その表現は、三度言い直させてなんとか聞き取った。なるほど、そんな考え方もあるだろう。 「だからハクト、ティナを大切にしてあげて。私はずっと一緒にいるけど、でも駄目だよ。私じゃ足りない。霧の向こうの人でないと駄目なんだ。ハクトにも、ティナは大切、でしょ?」  足りない、といくつかの表現で、身振り手振りまで交えて伝えようとするシア。ハクトも理解につとめる。それでも、二人の間に苛立ちが芽生えることは抑えられない。 「そう、ですね」  ハクトが答えたのは、納得したがゆえか、それとも対話をあきらめたゆえか。自分でも判断しかねた。おそらくはその両方だ。  日は暮れようとしている。窓から差し込む光は赤に近い橙色に染まった。太陽は霧の中にその身をなかば沈めている。やがて地平線に至るまで、もうそれほどの時間はないだろう。ティナはどこまで行ってしまったのだろう、とハクトは考える。双子の家か、それとも食堂か、はたまた裏庭に積まれた薪のところか。  玄関の呼び鈴が鳴った。そのかすかな音を聞きつけて、シアが立ち上がる。しばらくして戻ってきたシアは、双子の姉、ミキの方を連れていた。いつも通りの青い服に、妹とは対照的なおどおどした仕草。見間違えるはずもない。 「ごめんね。メグが、面白いものがあるって言うから」 「面白いかなあ」  首をひねるシアをよそに、ミキは中年男のもとに駆けより、楽しそうに観察を始めた。何が楽しいのか、時折くすくすと笑みを漏らす。一通り男の所持品や風体をあらためると、満足したのか男のそばを離れた。 「こんな大きい男の人を、けがもさせずに気絶させるなんて、何者かな。不思議ね」  妹と違い、彼を落とし物呼ばわりはしない。ティナの通訳がないのでミキの言葉はあまり聞き取れなかったが、必死になって聞くほどの言葉でもないだろうと思われた。そんなハクトの様子に気付いたのか、ミキはハクトのそばにやって来て袖を引く。 「こんにちは、ハクト」  ヴァナ語だった。しかも、シアのそれより発音がいい。面食らいながらも「こんにちは」と返すと、ミキは口元に手をやり、ほっとしたように笑う。 「ティナは?」 「ハクトと喧嘩して、飛び出して行っちゃった」  あきれたような口振りでシアが答える。ミキは残念そうに口を曲げ、それからハクトの方へ向き直った。 「じゃあ、ハクトでいい。霧の向こうのこと、もっと教えて」  驚くほど流暢だった。子供だけに吸収が早いのだろうか。シアの方も驚いているようだった。 「ヴァナの言葉、上手ですね」 「ティナと遊んでるときに、覚えたの。わたしがティナに、ひとつ言葉を教えたら、ティナはわたしに、ひとつ言葉を教える。メグはみんな忘れた、みたいだけど、わたしは紙に書いて、覚えたの。ティナの代わりに、ハクトの言葉を、伝えてもいいよ」  胸を張るミキ。そういえばティナとは年齢も近い。ロカの街に子供がどのくらいいるのかは知らなかったが、すぐ近所に住むティナと双子は、一緒に遊ぶにはいいだろう。 「ミキはよく勉強するんですね。偉いです」  ハクトがかがんでミキの頭を撫でると、ミキははにかみ、それからそっと視線を逸らした。ちらりとハクトの顔を見上げ、言いにくそうに「ハクト」とつぶやく。 「ティナには秘密、の話をしてもいい? ティナに言わない?」 「はい。なんですか」  ミキは、口元に近づかなければ聞こえないほどの声で喋り始めた。もしこれがこちら側の言葉なら、ハクトにはお手上げだったことだろう。 「メグは、ティナを信じた。わたしは、信じ、なかった。ティナの言うこと、嘘だと思った。だからわたし、いじわるしようと思って、ティナに色んな言葉を聞いたの。同じ言葉を、ティナが忘れたころにまた聞いて、違う答えが返ってきたら笑って、やろう、と思った」  大人しい外見に似合わない告白に、ハクトは思わず目をしばたく。ミキは泣きそうになりながら、それでもハクトの服の裾を握り、なおも喋り続ける。まるで、そうすることで罪が晴れるとでも言うかのようだ。 「でも、ティナは本当に、霧の向こうの人なのね。ハクトにも、この言葉が通じるんだね。わたしは偉くないよ、ひどい子だ。なんにもできないのに、そのうえ、人を信じられないなんて、すごく悪い子だ、よ」 「なんにもできない?」  ミキは小さくうなずいた。 「わたしはメグみたいに早く走れないし、重い物を持つのも、苦手。野菜を採るときも、いつも若すぎるのを採ってくるし、馬にも嫌われる。おまけに、大きな街の学校に行って、お金ばっかりかかる」  ハクトは再び、ミキの頭を撫でた。くせのないその髪はひんやりと冷たくて気持ちいい。迫ってくる夜闇にも似た清涼感。 「フェルティ……ティナは、幸せですね」  ミキがおずおずと顔を上げる。何もせずに放っておいたら、このまま小さくなって消えてしまいそうだ。きっとハクトの視線が、縮こまるミキを溶かしていく。 「こんないい子に、信じてもらえてるんですから」  ごめんなさい、とミキは頭を下げた。メグのものとは違う、ゆっくりとした仕草だ。頭を下げた拍子に髪が跳ねることもない。 「で、でも、わたしは」 「今は信じてるんでしょう? だったら、いいじゃないですか」 「……うん」  それから、シアの耳に入るのを避けるように、ハクトに耳打ちした。 「だからわたし、花使いになるの。シアみたいに、花を使って、お金をもらって、お金と花を使って、調べることをするの。それでいつか、霧の向こうに行くんだ」  ハクトは、そっと若い花術士の肩を叩いた。 「紺碧の都ヴァナは、いいところですよ」 「ティナもそう言ってた」  二人は笑みを交わし、それからハクトはミキに「すみません」と声をかける。 「ヴァナ語を書いた帳面、見せていただいてもいいですか。こちらの文字も覚えたいんです」 「うん。そういうことなら、すぐ持ってくる」  シアに「すぐ戻るね」と手を振って、ミキは部屋を出ていく。ハクトは小さく肩をすくめた。 「フェルティナダには、あとでよく謝らないといけませんね」  寝台の上の中年男がうめき声と共に目を開けたのは、ハクトがそうつぶやいた、まさにその瞬間のことだった。 「起きた?」  シアの声に、中年男は「ああ」と肯定の声を上げる。それから自分の顔をのぞき込んでいる人間の顔を認め、ぎょっとしたように身を逸らした。 「お嬢さん! 自分は、どうしてここに」 「覚えてないの? うちの畑で倒れてたんだよ」  さあ、と男は首をひねる。 「自分には、何がなにやら」 「そう。ところで、あなた誰? 私のことを知ってるの?」  歯切れのいい会話は断片的にしか聞き取れないが、単語をつなぎ合わせれば概要は分かる。ハクトは今更ながら、ミキを帰したことを後悔していた。ティナのところに行くまで、通訳をしてもらえばよかった。 「自分は……ドム・ノッジと申しまさあ。それ以上のことは、ちいと勘弁してくだせえや」 「嫌だ」  ハクトはまばたきした。腕組みをしてそう答えたシアの声音に、人を使い慣れている響きを感じる。今まで気付かなかったが、もしかするとシアも中流以上の家の出なのかもしれない。よく考えれば、いくら花術士と言っても、十七歳の少女がそう簡単に二人の人間を養えるとは思えない。彼女の部屋には親からの手紙もあったから、いくばくかの援助を受けている可能性はある。 「し、しかし」 「じゃあ、あなたのことはいい。どうして倒れてたのかってことと、どうしてうちの畑にいたのかってことを教えて」 「はあ」  寝台から身を起こし、頭を揉むようにしながらノッジは口を開いた。額に落ちた油っぽい髪が、指を動かすたびにうるさく揺れる。  そして、その姿勢のまましばし沈黙した。 「すんません、お嬢さん」  シアが口を開こうとしたその瞬間、彼は口早に訴える。 「とんと記憶にごぜえませんで」 「本当に?」 「それはもう、掛け値なしの事実でさあ。怪しい野郎を見つけたんで、ちょいと問いつめてやろうと畑を突っ切っているうちに、ふっ、と気が遠くなって」  ばたん、と擬音を口でつくりながら、ノッジは寝台に身を沈めた。 「怪しい男っていうのは?」  ノッジは億劫そうに体を起こしながら、「さて」とつぶやく。シアの方に目をやって、その厳しい視線に押し負けるように視線を逸らした。しかしながらその先にはハクトがいて、ノッジは小さなため息をつく。 「お嬢さんも聞いたでしょう、あのけったいな音。お嬢さんの家の前で、その野郎が何かした途端に、あの音と共に窓が、ばりいん! と割れたってな次第でさあ」  擬音や大げさな身振り手振りを交えて喋ってくれるおかげで、言いたいことはハクトにも理解できた。シアやティナもこれくらい分かりやすく喋ってくれればいいのに、などと詮無いことを思う。発砲したのは、どうやらノッジではないらしい。 「その男、どんな風体だったか覚えてる?」 「さあ、ずいぶんと距離もあったもんで。黒い髪を、こう編んで背中に垂らしてたのは覚えてまさあ。服は地味なもんでしたよ」  シアが困ったようにハクトを見た。目で救難信号を送っているかのようだ。当惑しきった表情のまま、シアは尋ねる。 「ハクト、友達の髪は」 「黒です」  ノッジの言葉はシアのそれに比べて歯切れが悪かったが、黒い髪という言葉は嫌というほどはっきり聞き取れた。こんな時にばかり、とハクトは歯噛みする。黒髪の男などどこにでもいる。頭のどこかがそう訴えるが、しかしそんな直感だけでは、記章の存在を無視するまでには至らない。感覚が麻痺してしまったのか、少々の矛盾ではハクトの信念に傷をつけることはできない。 「ありがとう。気絶したときのこと、もう少し教えてくれる?」  了解はしたものの、ノッジはしばらく考え込んでいる。くせなのだろうか、鼻の横を掻きながら顔をしかめた。やがて、不本意そうな表情を浮かべて口を開く。 「ありゃあ、狐狸にでも化かされたんじゃねえかと思うんですが」  やがて吐き出されたのは、そんな一言だった。首をひねるハクトに、シアが「お化けに、だまされた」と補足する。 「野郎はね、確かにこっちを向いたんでさあ。それから、野郎はこう手を出して、えいっとばかりに気合いを入れて」ノッジは右の拳を正面に突き出し、えいやっ、と叫ぶ。「そうしたら、白い煙みたいなもんがふわーっと漂ってきましてね。ありゃあ、近くで見たことはないんですが、果ての霧に似てまさあ。それを吸った途端に、こう、ばたん! と」  今度は手だけで、軽く寝台を叩いてみせる。シアは再び腕を組み、難しい顔で何やら思案しているようだった。 「やっぱり、霧か……ハクト、霧は、近くで見ても、白い?」 「さあ……」  首をひねる。いくら思い出そうとしても、霧がどんな風に見えたかという記憶は掘り当てられない。ハクトが覚えているのは、鼻腔から肺までを満たす湿った重苦しさだけだ。 「ところであなた、出身は?」 「西の方でさあ。それがどうかしましたかい」 「西か……依頼人は?」  は、と声を上げるノッジの前に、ティナはずいと顔を突き出す。鼻息がかかりそうな距離から、「誰に頼まれたの?」と再び尋ねた。 「自分には、何のことやら、さっぱり」 「あなた、もし探偵なら転職を考えたほうがいいよ。じゃあ、『はい』か『いいえ』のどっちかで答えてよ。それくらいなら言えるでしょ? 言えるよね?」  シアはたもとから草の実を出して、わざとらしく前歯で噛みちぎった。そのまま息を吹きかけると、ノッジは涙ぐみながら咳き込み、その息から逃れようと身を引く。勢い余って宙に手をつき、寝台から落ちて上掛けを跳ね上げ、派手にひっくり返った。 「くさい? 慣れるとやみつきになるよ。……で、本題。あなた、エリン・ベリーに頼まれて来たの?」  ノッジは「お答えはできませんや」と首を振った。シアは鼻息を鳴らすとノッジに近寄る。彼が起きあがる前に、その頬に触れるかどうかという位置に靴底を叩きつけた。床板を叩く音からするに、顔を踏まれたらさぞかし痛いだろう。鼻の骨くらいは折れるかもしれない。シアは息を吸った。 「『はい』か『いいえ』で答えろって言っただろ!」  ハクトの背筋が寒くなる。  刃物のような迫力はすぐに引っ込み、代わりにシアの顔にはつまらなそうな表情が浮かんだ。 「お母様に頼まれて来たって言うんなら、何の問題もないよ。シアは健康にやってますって、適当に伝えておいてちょうだい。でも私、隠れてこそこそ動く人って大嫌いなんだよね」 「し、しかしお嬢さん、あんな野郎がうろついてるような街に、お一人ではあまりにも」 「あれは例外中の例外。すぐに片づく。それに一人じゃない、三人だよ」  草の実の匂いを吹きかけながら、シアは静かにささやいた。男にしてみれば笑い事ではないのだろうが、その仕草はどことなく商売女を思わせる。もっともあの匂いは、葉巻の匂いよりはずっと強烈なのだろう。 「分かったら――」  シアが再び息を吸ったそのとき、玄関で呼び鈴が鳴る。「入りまあす」という声はミキのものだ。それを聞くなりシアは肩をすくめ、二、三歩男から離れる。 「ハクト、ほかの人には、ナいショよ」 「は、はい!」  ご先祖さま、ごめんなさい。ハクトは天井を仰いだ。これはなにか、日頃の行いの悪さに対してばちが当たったに違いない。ほんの数歩先には鬼神が立っている。ヴァナに帰ったらお参りに行きますから許してください。そんなハクトの心の声を知ってか知らずか、ミキが「持ってきたよ」と弾んだ声を上げた。おそらく、一番ほっとしているのはノッジだろう。次点は間違いなくハクトだ。 「はい。大切に、読んでね」  帳面のつくりはヴァナで見るものと大差ない。紐のかがり方が少し違うくらいのものだ。そこに、細い筆で書かれた丁寧な字が並んでいる。真ん中に線を引いて、上がラサの言葉、下がヴァナの言葉。常用文字に、ときおり役人文字で読みが振ってある。そのあたりの使い方は故郷と変わらないらしい。言葉を交わすより筆談の方が早いのではないかという気もしたが、しかし読んでみても意味は半分も分からなかった。 「ミキ! これ、すごいよ!」  横からのぞきこんだシアが目を丸くする。おねがい、写させて、とミキに頭を下げ始めた。ミキの方はといえば、シアの息に残る草の匂いに涙を浮かべている。 「すごく分かりやすい。そうか、こうやって紙にまとめればいいのか……」 「ま、まとまってないよ。日付の順番に書いてあるだけだもん。ほら、ここ」  ミキが指さした先には、たしかに日付が入っていた。月の名前も散見される。全体に使われている書体はあまりなじみのないものだが、読めないほどではない。 「何を喋ってるんですかい?」  ノッジの声に、シアは首だけを動かして振り返る。中空にふっと息を吐き出しながら、「秘密だよ」と短く答えた。 「そう、けちくさいことを言いなさんな」 「だったら、お金払ってくれる? 言っておくけど、高いよ」  そのままノッジは無言になり、寝台の上に再び寝転がった。顔をしかめてこめかみの辺りを押さえている。本調子ではないのだろう。倒れた原因がなんであろうと、先刻のシアの形相を目の当たりにしては、動けるものも動けなくなるに違いない。 「そうだ、シア」  ミキが呼んでも、シアは帳面から顔を上げない。紙が破れそうな勢いで頁をめくりながら、「なるほど」やら「間違ってる」やらとつぶやいているばかりだ。ミキは「もういい」とことわって、ハクトの上着の裾を引いた。 「ハクト、あのね。ティナはリズと、一緒。さっき、兄が見たの」 「リズと? どうして」 「きっと、ティナがリズと会ったんだよ。リズは、子供とごはんを食べるのが、好きなの。ごはんを食べてから、街の食堂に来る、と思う」  それから、ミキは声をひそめた。 「兄が言ってた。ティナは泣いていた、って」  シアの方を見る。広げられた帳面には「一月朔日」の文字。三月近く前だ。 「ひとりぼっち……」  突然聞こえたその声に、ハクトは唾を飲み込んだ。シアの視線をたどると、そこには確かに役人文字で「ひとりぼっち」の音が綴ってあった。真上にあるのが、ラサで同じ意味を示す言葉なのだろう。 「ティナは、いつからここにいるんですか」 「ええと……去年の夏、たぶん」  やけに喉が渇く。理解する者のいない寂寥の念は、どんな思いで吐き出されたのだろうか。半年のあいだ、少女の中で反響していたのだろうか。地面が揺れるような錯覚があった。落ち着け、と自分に言い聞かせる。勝手な想像だ。ティナだって、そんな安易な同情は望んでやいない。同情? ならばこの思いはハクトの中にも生まれているのか。 「シア」  いても立ってもいられなくなって、ハクトはシアの腕を掴んだ。研究を邪魔された彼女は眉をひそめたが、ハクトの顔を見て姿勢を正す。 「ティナを、迎えに、行きます」 「わ……分かっタ。私も、行く」  張り子の人形のようにくり返しうなずいて、シアはノッジとミキに視線を向けた。寝台の上のノッジは動く気配がない。まるで精気を吸い取られてしまったようだ。ただでさえ尽きかけていた精気が、シアにすべて散らされてしまったようにも見える。 「ミキ、悪いんだけど、すこしお留守番しておいてもらえない?」 「ティナが戻るまでだね。いいよ。わたしの家族に会ったら、わたしはシアの家にいるって伝えておいて」  そう答えて、了解の意味で指を立ててから、ミキは思い出したようにノッジの方を見た。 「あの人は?」 「放っておいていいわ。帰るようなら帰してあげて。どうせ逃げたところで、今夜はこのあたりに泊まるんだろうし」  シアの視線から逃れるように、ノッジはシアに背を向けて身を丸めてしまった。ごていねいに掛け布団を引き上げ、頭まですっぽり覆う。すねた子供のようだ。この様子なら、ミキと二人にしておいたところで問題はないだろう。 「よろしくね」 「任せて!」  あこがれの花術士に大役を任された喜びなのか、ミキの声は華やいでいる。  ノッジは布団からほんの少し顔を出して、顔のわりに小さな目を細めた。  互いの息づかいまでが聞こえそうな沈黙の中で、ティナは小さくうめいた。トウヤがティナの胸に押しつけた銃口は、上下左右にかすかに振れている。それでようやく、ティナは自分が震えていることに気付いた。いくら拳銃とは言え、銃は銃だ。撃たれれば死ぬだろう。 「あんた……どうしてここにいるの」 「ハクトを探しに来たのさ。友達だからね」 「じゃあ、どうして……ただの人間である、あんたが」  喉が渇いて痛い。だが、これだけは聞いておかなければならない気がした。 「こっちの言葉を、知ってるのよ」  トウヤは低く笑った。陽は沈み、山際の空は紫から橙へと変わりながらわずかに光る。 「知らない方がいいと思うよ」 「……冥途のみやげには、いいと思うんだけど」 「ははっ、いい覚悟だ。君はなかなか賢い子だね」  彼は痩せている、というより、やつれている。その顔はどこかオースンにも似ていた。ティナは唇を噛む。それから舌に前歯を当て、噛み切れないことを確認するように、二、三度力を加える。  間近で見る彼の額には脂汗が浮いていた。肩を抱く彼の手に目をやると、手の甲に白い包帯が巻かれているのが見える。 「色々と、君を慕う男に邪魔をされたものでね。どうなることかと思ったけど、君に会えて本当によかったよ」  何を言っているのか理解できないといった表情で、ティナは小さく首を振った。 「フェルティナダ・リチカート。去年、コウランゲートの崖崩れに巻き込まれた死者だね。家は中央区、フィデルウィッカ市」 「え……?」  ティナは目をしばたく。確かにそれは事実だ。ティナの故郷は中央区、議城の街フィデルウィッカ。城のある中心部は賑やかだが、郊外は閑静な住宅地になる。ティナの家はその住宅地で、両親と二人の兄が一緒だった。 「あれ、間違ってた?」  ティナはあわてて首を横に振る。しかしハクトはティナのことなど知らなかった。その友人であるトウヤも、条件は同じだろう。一年も前の事件のことを、そう克明に覚えているはずもない。ティナは疑わしげに眉をひそめた。 「どうして……」 「不思議に思うことはない。ぜんぶ新聞で発表されたことだよ。それにしても、どうやって生き残ったんだい?」 「し、知らないわ。足元が崩れて、霧に巻かれて、だから息を止めてやみくもに走って、気がついたらこっちにいたのよ」 「それはすごいね。ハクトが同じ目に遭ったら、きっと死んでいたよ」  押しつけられた銃口と、それを握るトウヤのあいだで視線をさまよわせる。夕陽の残滓は今や消え、トウヤの黒髪は夜の闇に溶け込むようだった。  ふと、彼はティナの顔から視線を逸らし、背後を振り返った。厚い布地の靴が、静かに土を踏む音がする。その足音をかき消すように、金属どうしがぶつかり合う音が聞こえた。トウヤの視線を追ったティナの目に、背の高い人影が映る。林を渡る風が、闖入者の長い髪を揺らした。なま暖かい風には草の匂いが混じる。 「そこで何をしている」  男の声を聞いて、ティナは目をしばたいた。道は林の中で大きく湾曲する。その西側、大通りへ続く道に立っていたのは、リズの家に行ったはずのオースンだった。しかしいつもの陽気な調子は陰をひそめ、その目は獲物を見つけた狩人のように鋭い。ティナは顔に警戒の色を浮かべ、身を縮めた。 「いえね、ちょっとした交際の申し込みを」  軽口を叩くトウヤの腕は、緩む気配がない。  ティナの、決して好意的とは言えない表情に文句を言うでもなく、オースンはまっすぐ二人のもとに歩いてくる。数歩の距離はあまりにも短かった。トウヤは動かない。銃を手で払い、トウヤから引きはがすようにして、オースンはティナの胸ぐらを掴む。 「こんな乳臭い子供の、どこがいいんだ?」 「い、痛いよ」  その声には耳も貸さず、オースンはティナを地面に叩きつけた。土の上に仰向けに転がった彼女の腹を踏みつける。男ひとりの体重をかけられて、ティナの喉に吐き気がこみ上げる。 「なん、で……」 「愛すべきティナのために、教えてさしあげようか」  脇腹を蹴り上げられ、ティナは身を丸める。踏み固められた土の上に、涙がじわりと広がった。オースンの攻撃は止まない。 「レイジ・オースンは、ティナ・リチカートを監視するためにこの街にやって来た」 「え?」  上げた顔に蹴りが入る。そのまま、踵で頬を踏みにじられた。声音ひとつ変えることなく、オースンは淡々と続ける。 「ほんとうは殺してあげたかったんだよ、この僕の手でね。でも偉いさんが駄目だって言うんだ。事なかれ主義のあんな連中には、いい仕事はできまいよ……まあ、おかげであの馬鹿な年増と、新鮮な時を過ごせたわけだけどね」  トウヤが左手を伸ばし、ティナとオースンを引きはがすような仕草をする。 「なにを考えてるんだ。やる気か」  訛りこそあるが、ティナのそれとも遜色ないラサ語だ。 「元はと言えばお前のせいだろう、アガトゥス。役立たずもここまで来れば爽快だ。なあに、全部お前の独断だったことにして報告してやるよ。お前の首と一緒にさ」  ティナの苦悶の声には耳も貸さず、オースンは口角を上げる。足にかかる力は緩まない。やがて靴は頬を離れ、土の上に広がったティナの金髪を踏みつける。 「ありがとう、ティナ。君を見ている間、ずっとこうしてみたくて仕方がなかったんだ。愛していると言ってもいい。こんな男に、君を連れて行かせやしないよ」  オースンの足を払いのけようと試みるが、ティナの力では動かすこともできない。髪の先を踏まれているせいで、顔を上げることすらできなかった。白茶けた地面が視界の半分を覆う。残りの半分は暗い林と、二組の靴と脚だ。痛みよりも混乱からか、ティナは身を強ばらせる。 「あんたたち、知り合いなの……?」  ようやく絞り出せたのはそんな言葉だった。「ただの同胞だ」という答えはトウヤから返ってくる。「知る必要はないよ」というのはオースンの返事だ。 「いいじゃない、殺す前に教えてよ……わけわかんないよ、全然わかんない!」  何度も叫んでいるうちにすっかり発音の良くなったその言葉を、久しぶりに口にする。 「い、今さら」勢いのままに言葉をつむぐ。「ちょっとやそっと痛いくらいのことじゃ、ティナは死なない。教えてくれるまで、死んであげないんだから!」  オースンは物憂げにため息をつき、ティナの髪から足を引いた。痛む右頬を押さえながら、ティナはゆっくりと身を起こす。 「ことは簡単だ」  うつむくティナの頭上から、トウヤの声がする。不審者を前にした番犬のような、余裕を感じさせない、剣呑な調子だった。 「見当はずれの研究を邪魔しに来るほど、そいつは暇じゃない」  その意味を、しばらく考えてしまった。  やがて結論らしきものに行き当たったとき、ティナは思わず口元を押さえた。 「霧で隔てられた都は、かつて一つだった……本当に」 「まあ、そんなところかな」  シア以外の口からその事実を肯定されたのは初めてだったのだろう。ティナは力の抜けた笑みを浮かべる。 「本当、なんだ」  その言葉はオースンに聞きとがめられることもなく、ティナの口の中で反芻されていった。彼女の口元がわずかにほころぶ。必死に笑いをこらえるようで、それでいて眉は困ったように寄せたまま、ティナは再び「本当なんだ」と繰り返した。 「嬉しそうだな」 「そんなこと、ない。……じゃあ、あんたたちも霧の研究をしてるの?」 「まあ、そんなところかな」  その返事を聞いた瞬間、ティナは弾かれたようにトウヤにすがりつき、上着の裾を掴む。銃口を向けられたが、それに頓着する気配も見せなかった。 「じゃあ、あんたは……まさか、霧を越える方法を知ってるの?」  トウヤは「いかにも」とうなずいた。 「それで、ハクトを探してたの? ヴァナに連れ戻すために?」  次の問いには、否定の手振りが返ってきた。 「そうできたら良かったんだけどね。あいつがいなけりゃ、そうするつもりだった」  オースンは鼻を鳴らすと、無造作にティナの横っ腹に蹴りを入れた。転がったティナを鞠のように蹴飛ばすと、先刻トウヤが手にしていたのと似た銃を取り出す。とっさに数歩飛びすさったトウヤの胸に、その銃口を向けた。 「だがそれは、場合によっては死罪にも値する重大な規定違反だ」 「まあね。知っててやったわけだけど」  トウヤほど銃に慣れていないのだろう。オースンはまっすぐに腕を伸ばし、片手で銃を支えている。遊んでいる左手をちらりと見て、ティナは小さく肩をすくめた。ゆっくりと身を起こし、数歩先に立つトウヤに尋ねる。彼が手にする銃はオースンに向けられていた。 「じゃあ、あんたも死ぬの、ビットクラーヤ」 「悪いかい? 人はいずれ死ぬ生き物だよ」  トウヤは唇に笑みを乗せた。オースンの表情が険しくなる。 「都は永遠に生きられるかもしれないけどね」  ティナはぐっと眉根を寄せた。夜のとばりの中で、その表情はトウヤに見えてはいないようだった。いつの間にか陽光のなごりも消え、林の上にわずかにのぞく南の空の虹柱も、暗い紺色の中に沈んでいる。  ティナは小さく息をつく。いつの間にか手のふるえは止まっていた。 「いい心がけだ」  オースンの笑い声がした。彼の横顔を見上げると、空いた方の手で肩をそっと抱き寄せられた。ほんの一瞬前まで彼女を足蹴にしていたとは思えない、丁寧な仕草だ。ティナはわずかに目を伏せ、その手に視線を落とす。鼻腔をくすぐるつんとする匂いは、いつも彼がまとっている香料のものだ。銃の狙いはトウヤから離れ、ティナの首筋に突きつけられた。刃物じゃないんだから、と口の中だけでつぶやく。少しだけ緊張がほぐれた。 「何のつもりよ」 「思い出したよ、馬鹿にかまけている時間はないんだ。この間の大逆流は実にひどかった。僕のような優秀な人材は、今は引く手あまたなんだ。ねえティナ、腰の赤い袋を開けてごらん」  彼の腰に組み紐で吊られた巾着を、おそるおそる開ける。中から出てきたのは小さな歯車だった。ああ、とティナは小さく声を上げた。シアの家から盗まれたものだ。 「あの泥棒、あんただったの」 「その前のもね。我ながらいい手際だった」 「あんたは、一体――」  肩に回した手の人差し指を伸ばし、オースンはティナの頬を軽くつついた。彼の顔に貼り付く笑顔は仮面のようだ。鋭い視線だけは隠せない。 「さあ、せっかくの人質がいるうちに、できることは全部やっておかなくちゃ。シア・ベリーを殺す前に、あの鬱陶しいハクト・グレイダームだね……それとも自分でやるかい、アガトゥス?」  肩に回っていた手がティナの顎を持ち上げた。おかげでトウヤの反応はよく見えない。オースンは左腕でティナの首を抱え込み、右手に銃を持って立ち上がる。喉を締め上げられるかたちになって、思わずティナはうめいた。細身に見えてもしょせんは男、その膂力は十分だ。 「そうかい、じゃあそうやって、またリズの家にでも隠れておいで。墓はお友達と一緒がいいかい?」  足がつくかつかないかという状態のまま、ティナは数歩引きずられる。曲がり角の向こうから話し声がするのに気付いたのはその時だった。その声は蹄と車輪の音を伴って、まっすぐ近づいてくる。  一人は少年。そしてそれとは別に、男女の声が聞こえる。  それが誰なのか理解した瞬間、ティナは「だめ!」と叫んでいた。  馬車の上で、ハクトが目を丸くしている。