2  ろうそくの炎をそっと木片に近づける。向けられるいくつもの視線に緊張しながら、ハクトは木片をあぶった。居合わせた人々の中にどよめきが広がる。  炎は木片を焦がすどころか、変色さえもさせない。ちらほらと賞賛の声が上がる。 「いやあ、いい手品を見せてもらったよ」  ティナが男性の言葉を伝えながら、「手品じゃないのに」と唇をゆがめる。  シアに連れられてやってきたのは街の食堂だった。ロカは小さな街だけに、そう何軒も食堂があるわけではない。夜になれば人々はここに集まってくる。赤い灯火を軒に吊し、商売繁盛の札を貼った外観は、故郷にあるものと変わらない。違うのは、どこまでも甘くて塩気のない料理の味くらいだ。ハクトの顔を見に来たのか、いつもよりも人が多いという。それでも、両手の指にすこし余るくらいの人数だ。  ハクトが手にしているのは硬木だ。ただの木に精力を込めて作る硬木は、ものにもよるが燃えないし傷もつきにくい。金属の産出が少ないヴァナでは、発動機はたいてい硬木製だ。硬度鏡で木片を見ながら慎重に精力を流していくと、硬度鏡に映る光はやがて木片全体に染み渡る。そうなれば硬木の完成だ。元の木に戻すには、逆の手順を踏んで精力を吸い取ってやればいい。化学的な加工もいいが、硬木ほどの強度はなかなか得られない。  右目を覆う硬度鏡を上げる。指紋と湾の塩水は、思ったほどには鏡を痛めなかった。包帯の代わりに、無事にハクトの額におさまった硬度鏡は、どこか誇らしげにも見える。  爪で木片を弾きながら、ハクトはかたわらで焼餅をかじるティナに話しかけた。 「本当に硬木がないんですね。信じられませんよ」 「ティナも最初はびっくりしたわ。でも、金属が山にいっぱいあるから、わざわざ硬木なんか使う必要がないのよね」  よーし、と声を上げたのは、ティナと同じくらいの歳の双子の妹だ。こちらの言葉も少しずつだが分かるようになってきている。よく聞けば文法はほとんど同じだから、あとは単語を覚えるだけだ。その単語も、きつい方言程度の差だ。ティナが耳打ちしてくれる訳語とつき合わせると、なるほど、と納得できる。 「行け、ミキ!」 「え、わ、わたし?」  双子はシアが住む土地の地主の娘だ。青い服を着ている方がミキ、赤い方がメグ。彼女たちの名前はすぐに覚えられた。きゃしゃな二人を見ながら、父さんに似なくてよかったね、と思わずつぶやく。でっぷり太った彼女たちの父親は、双子とは似ても似つかない。 「ミキが行くよっ!」 「じ、じゃあ、やります」  メグがミキの前に、小さな植木鉢を持ってくる。赤い花がいくつか咲いていて、中にはつぼみも見てとれた。 「勉強の成果を見せてやれ!」 「やめてメグ、失敗したら恥ずかしいよ」  そう言いながら、ミキはそっとつぼみに手を添える。がくの辺りを撫でるうちに、つぼみに変化が現れた。うわ、と声を上げるハクトの前で、つぼみが少しずつ花開く。 「え、フェルティナダ、何ですか、これ」  思わず声を上擦らせながら、ハクトはティナの袖を引く。 「ええと、なんて訳そうかしら……花……花術、よ。たぶん硬木と同じで、精力を注いで花を咲かせてるんだわ」 「花術? 生きてる花に、精力なんか与えられるんですか?」 「知らないわ。そういう難しいことはシアに聞いてちょうだい」  半信半疑ながら硬度鏡を下ろすと、確かに咲いた花のがくから花びらにかけて、白い光が凝集しているのが見えた。強い精力が宿っているしるしだ。はにかみながら微笑むミキに、温かい賞賛の言葉が送られる。若い花術士は一礼すると、植木鉢を持って下がっていった。 「こりゃあ、グレンのおっちゃんも安心だな」 「もちろんよ。ミキは頑張ってるもん」  声をかけられ、赤い服のメグが胸を張った。明るい茶色の髪は、うなじの辺りで一つに括られている。結ばれた平紐は服と同じ赤色だ。青い服のミキは妹と同じ色のまっすぐな髪を、結わずに背中まで伸ばしている。  双子の父親の姿は見あたらない。代わりに彼女たちの兄が、少し離れたところから妹たちを見守っている。双子と同じ明るい茶色の髪で、顔もよく似ているので、一目でそれと知れる。シアよりも若いであろう少年は、すっかり保護者気取りだ。 「これで、兄ちゃんもシアをお嫁にもらわなくてもいいね!」 「そ、それとこれとは関係ないじゃないか。家に花術士が二人もいたら、きっと楽になるぜ」  シアが「まだ言ってるんだ」と笑う。メグは顔を真っ赤にした兄を見て、満足そうにうなずいた。ティナが「いつもあの調子よ」とつけ加える。 「シアも花術を使うんですか?」 「ええ。そうでなきゃ、あんな広い畑をシアとティナだけで面倒見られるはずがないわ」 「フェルティナダは?」 「ティナには無理。才能がないみた……きゃっ!」  後ろから抱きすくめられ、ティナが身を堅くする。抱きついてきた若い男は、愛おしそうにティナの頭を撫でながら何かをささやいた。長い髪には華やかな色の髪飾りがついている。服も腕輪も、一目で実用性がないと分かる派手な代物だ。動くたびに互いがぶつかって硬い音を立てる。ティナはその音ごと振り払うように、彼の腕から逃れた。邪険にされると、彼は肩をすくめてまた何か言う。ティナは彼の方に目もくれず、ハクトの腕を掴んだ。 「『じゃあ君は僕のお嫁さんってことで』じゃないわよ! あのお調子者、親のすねかじりのくせにいつもあんな調子なんだから」 「今、彼はなんて言ったんですか?」  ティナは嫌悪感を隠そうともせず、「『照れなくていいんだよ』ですって」とつぶやいた。 「オースンにはリズがいるくせに」 「恋人ですか?」 「そう。あそこにいる、紫の服を着たのがリズよ」  ティナが示した先を見て、ハクトは目を丸くする。 「おばちゃんじゃないですか」 「あいつに言わせりゃ、立派な薄幸の未亡人よ」  リズはどう見てもハクトの母親ほどの歳だ。双子の父親ほどではないが、やせていると言ったら詐欺になるだろう。趣味を疑いたくなるような、目にまぶしい紫の服。服に似合わない凡庸な顔がちょこんと服の上に乗っている。まだせいぜい二十代の半ばであろうオースンとは、明らかに不釣り合いだ。リズはオースンに「あたしがいるってのに、ひどいわ」と声をかけ、オースンは「嫌だなあ、僕がほんとうに愛するのはいつも君だけさ」と答える。会話の内容を聞かされるまでもなく、ハクトの肌に鳥肌が立った。 「ラサの人って、ああいう年上の女性が好きなんですか」 「冗談じゃないわ、あの馬鹿が例外よ!」  周囲に聞かれないのをいいことに、ティナはずらずらとオースンの悪口を並べたてる。曰く、都会のぼんぼんがこんなところに何の用よ、詩人って言うなら詩のひとつも聞かせてみなさい、まったく最近の若い者は、何なのよあの趣味の悪い服、女と見れば見境なく口説こうとするんだから、とっとと家に帰れ、ティナにばっかり声かけてるんじゃないわよこの変態、リズがかわいそうだわ、うんぬん。 「よ、よく分かりました」 「分かればよろしい」  確かにオースンの格好は、この街では明らかに浮いている。リズは派手だと言ってもまだロカらしさを残しているが、オースンの方は場違いと言ってもいい。美形の部類に入るであろう若者の顔には、どこか老獪な雰囲気も見える。詩人という連中のことはよく分からないが、皆あんな調子なのだろうか。堅実であれと教えられて育ったハクトには、今ひとつ理解できない感性だ。  ふと、相棒となら気が合うかもしれない、と思う。そういえば、どこか共通する雰囲気があるような気がする。そこまで考えて小さく首を振り、目の前の湯飲みをひったくるように掴んだ。口をつける。「怪我人に酒は良くない」と茶を出されたのだが、これがまたやたらに甘い代物だった。水あめの間違いではないかと疑いたくなるほどだ。故郷では学生には酒を飲ませないのが慣例だから、酒を出されないこと自体は歓迎すべきなのだが。 「それにしても、都も広いんだなあ。別嬪さんの次は手品師の坊やか。シアもよく見つけてくるもんだね」 「おいちゃん、だから二人は霧の向こうの人だってば」  酔っぱらいの言葉に噛みついたのはメグだ。酔っぱらいはメグの言葉を一笑に付し、「子供は純粋でいいなあ」と笑った。ハクトは思わずシアの方に視線をやるが、彼女はそ知らぬ顔で茶を飲んでいる。絶対に信じさせてやると息巻くメグを、ミキとその兄が面倒くさそうに止めていた。いつものことなのだろう。 「無理もないわよ。ティナが逆の立場なら、ぜったい信じないもんね」 「同感です」  双子の兄であるユノ少年は、メグの前に焼肉料理の皿を差し出した。メグは箸と一緒に皿を奪い取り、兄のとなりに座って勢いよく食べ始める。ミキが横から肉を取ろうとすると、つばが飛びそうな勢いでこれは自分のものだと主張し始めた。そこで箸を引くあたり、双子と言えど性格はずいぶん違うようだ。一応は姉であるミキが、妹を大切にしようとしているのかもしれない。  口に食べ物を詰め込んだメグが静かになると、シアがそっとハクトの袖を引いた。 「ゴメンナサイ」  不快な思いをさせて、とシアは続ける。ハクトは慌てて首を振った。 「気にしてません、大丈夫です」  シアとティナが少し長い会話を交わした。ティナがわずかに眉をひそめ、心持ち早口に会話の中身を訳す。注意深く聞けばハクトにも何となくは聞き取れたが、通訳されると勘違いも多かったことが分かる。 「ティナはもう信じてもらえないことに慣れちゃってると思うけど、ハクシャダイトはそうじゃないから心配なんだそうよ。子供じゃないんだから大丈夫よ、って言ったんだけど」  大まじめな顔でハクトを凝視しているシア。その視線に気付き、ハクトは思わず苦笑する。 「フェルティナダの言う通りだと伝えてください」  とは言え、わざわざティナを通すまでもなく意思は通じたようだった。シアはハクトの手を握り、「良かった」とつぶやく。若い女性にしては大きくて皮の厚い手だった。 「諦めなよ兄ちゃん、シアはハクトがいいみたいだよ」 「いやいや、それとこれとは話が別だ」  皿を空にしたメグとその兄の会話が聞こえる。シアはメグの声を聞くなり手を放し、ティナから会話の内容を聞いたハクトも気まずそうに目を逸らした。  食堂の夜は更けていく。  東の空がほんのりと橙に染まる。夜明けの予感を前にして、空から星が消えていく。南の空の虹柱が闇から浮かび上がってきた。東に昇る太陽はやがて南に至り、虹柱の上端をかすめて西へ沈む。南中した太陽と虹が重なる冬の季節は既に遠い。  だく足の馬が四輪の軽装馬車を引いている。馬の手綱を取るのは双子姉妹の兄、ユノだ。金属製の馬車はどう見ても運搬用だが、ユノとハクトたち三人を乗せても底板がたわむこともない。野菜の山に比べれば、大した重量でもないのだろう。 「助かったよ、ユノ」  シアが声をかけると、ユノは「お安いご用」と胸を張った。 「休みじゃない日には、いつもミキを送ってるからな。気にしなくていいよ」  妹によく似た茶色の髪は、朝日を浴びて空と同じ橙色に染まる。左手から延びてきた道と合流したところで、道路の幅は馬車が三、四台、余裕を持ってすれ違えるほどになった。草原の向こうには街が見える。青くかすんだその街は、遠くからでも活気に満ちていることが分かった。盛り土の上に敷かれた線路がかすかに見える。ハクトは片目を閉じ、もっとよく見ようと額に手をかざした。ふだん、作業を単眼の硬度鏡を通して行うせいか、ハクトの右目はあまり遠くが見えない。 「ハクシャダイトを最初にうちに連れて来たときも、ユノが送ってくれたんだ」 「この馬車で?」 「怪我人にそれは悪いでしょう。あの時は、ちゃんと乗用の馬車を借りたよ」  ティナがあくび混じりにシアの言葉を訳す。空は少しずつ、橙から薄い青色に変わりはじめていた。沈みかけた白い月が見える。 「ユノ」  ハクトは思い切ってユノに声をかけた。少年は視線だけをわずかにこちらに向ける。馬車には乗り慣れないハクトにも、その手綱さばきが手慣れたものであることは分かった。 「ありがとう」  覚えたての言葉でそう言うと、少年は「よせやい」と笑った。 「照れるじゃないか。どういたしまして」  どんと背中を叩かれた。振り返るとシアが「お上手」とヴァナの言葉で言いながら、ハクトの背中を叩いている。「発音がおかしい」とティナが水を差すが、シアはあまり気にしていないようだ。 「そういえば、ミキちゃんは何をしにこんなところまで?」 「学校よ」  ティナがハクトの問いに答える。シアに「ミキの学校の話」とだけ言って、ハクトの横にいざり寄った。 「花術を学びに来てるのよ。ロカの学校ならずいぶん前に横を通り過ぎたでしょう。メグはあそこに通ってたようけど、幼年学校の基本課程だけでさっさと卒業しちゃったみたい。勉強や機織りよりも、畑を耕してる方が性に合ってるそうよ」  活発なあの双子の妹を思い浮かべた。確かに妹のメグは、机の前に座っているより畑にいるほうが似合うような気がする。 「ミキは中級特殊学校――花術学校って言うのかしら――に編入したの。ハクシャダイトも技師なら、技師学校に通ってたでしょう? あんな感じじゃないかしら」 「優秀なんですか、彼女」 「メグの頭の中身まで持って行っちゃったって、もっぱらの噂よ。その代わり、胃袋はメグが二人分持ってるってね」  ユノの存在を気にしてか、ティナはその会話をシアに伝えようとはしない。オースンの時にも思ったが、堂々と内緒話ができるというのは不思議な感覚だ。 「メグの、話?」  シアが首を突っ込んでくる。にやりと笑って、ハクトの耳に口を寄せた。 「メグが、学校、悪いのコトが、言われタ?」 「え、いいえ」  慌てて首を振ると、シアはハクトの首に腕を回して続ける。 「悪いのコトは、ナイショでしても、隠せない。言葉の分からなくても、分かるよ」  前言撤回。ハクトは空を見上げた。内緒話が内緒で行われていると思っているのは、しょせん当人だけか。 「参りました」  ハクトの言葉でティナも察したのか、苦笑しながら小さく首を振った。  馬車はエンナの街の手前にある、最初の門をくぐる。  ミキの学校はてっきりエンナにあるのかと思っていたら、そこからさらに鉄道馬車で二駅行った所にあるそうだ。バティ川に一番近いのはその反対側、三つ先の駅。ハクトが最初に運び込まれた病院もその街にあった。  鉄道の上を馬車が走っていくのが珍しく、ハクトは馬から目が離せなかった。バティ沿いのその小さな街に着いたあとも、去っていく馬車を名残惜しそうに眺めている。そんなハクトに、シアが「どうしたの?」と声をかけた。  ユノはエンナで引き返し、買い物をして帰っていった。夕方の馬車が着く頃には、また迎えに来てくれるそうだ。鉄道馬車の運賃は、一人あたり林檎が二つ買えるくらい。それが高いのか安いのか、ハクトには判断しかねた。 「いえ、ああいう馬車を初めて見たものですから」 「ティナもそう言ってたけど……嘘でしょう? 馬車がないなんておかしいよ」 「でも、発動機で動く車と鉄道がありますから」  ティナが「訳せない」とハクトの袖を引いた。「ティナも説明しようとしたけど、自分で動く車や鉄道って言っても分かってもらえなかったのよ」  なるほど、ではどうしよう、と考えているうちに小さな病院に着いた。白い壁の、三階建ての建物で、平らな屋根がわずかに傾斜しながら乗っている。  待合室に入ると、シアが「できるだけ黙っててね」と声をかけてきた。ティナが小声で通訳する。 「いろいろ説明するの、面倒くさいんだ」 「分かりました」  ロカの食堂でのことを考えれば、シアの判断もうなずける。ここまでの道程でも、あまり大声で喋らないようにとティナとハクトにくぎを刺していた。  待合室はほどほどに混んでいる。風邪を引いた者からハクトのような怪我人までがごった煮だ。暇なので、シアに発動機についてどう説明すべきかを考えることにした。  ヴァナの都は発動機であふれかえっている。大きな街ならばたいていの建物からは冷却管が突き出し、田舎でも発動機を積んだ車が道を行き交う。発動機には熱源が必要なので、夏になれば発動機で換気扇を回し、余計に外気温を上げていく。交通機関のほかにも紡績機に井戸水のくみ出しと、その用途は枚挙にいとまがない。  鉄道とは呼ぶが実際に鉄を使っている線路はわずかだ。たいていの軌条は硬木でできている。木製の軌条では、発動機のついた車両の重みに耐えられないからだ。車両には発動機がついていて、その動力で車輪を回す。軌条に沿って走らせれば車体が安定するということは、こちらでも知られているようだ。  発動機は本体とは別に加熱部を必要とする。小型のものならわずかな熱で動くが、鉄道車両を動かすには大きな燃焼室が必要だ。あの燃焼室、粗悪な燃料を放り込まれて黒煙を上げる発動機が懐かしい。しかしこれを説明できるものだろうか。絵でも描けば、少しは分かってもらえるかもしれない。困ったことに、絵心はないのだが。  そうこうしているうちにシアの名が呼ばれた。医者はハクトの全身の怪我を確かめ、順調な回復だと感心していた。そのあと施された脚の火傷と骨折の治療法は、ヴァナと大して変わらないようだ。 「これに懲りたら、二度と霧に近づくような真似をしちゃいけないよ」 「もちろんです! 以後気をつけます」  シアが首がもげそうな勢いでうなずき、ハクトにも同意するよう促す。こちらでも、霧を吸って気絶する人間はいるらしい。霧に近いであろうこの街ではなおさらだろう。またか、とでも言いたげな医者の反応は、霧から遠い街に住んでいたハクトにはかえって新鮮だった。 「大丈夫。もう私が診る必要はないようだ」  かんたんな質問をされて適当にうなずいていると、医者はそんな結論を下した。あとは近くの医者に診せなさい、と言って診察は終わる。最後にティナに向かって、「お兄ちゃんが無茶をしないように見てやるんだよ」と助言を残していった。 「あの、すいません」  ティナが「妹じゃない」と口をとがらせた時、シアが医者に尋ねる。 「最近、ほかにバティで霧に巻かれた人はいませんか」 「いいや、近ごろじゃ向こう見ずな若者も減ってるからねえ」  ありがとうございます、と頭を下げ、シアは二人を促して診察室を出ていった。  診察料を払って外に出るまでの間、シアは厳しい顔で何やら考え込んでいた。ハクトの方も移動に疲れていたので、あまりその沈黙を気にはしていなかったのだが、ティナは違ったようだ。 「どうしたの、シア」  ティナに袖を引かれ、シアは立ち止まる。ロカよりはよほど大きいが、エンナほどではない街だ。行き交う人々は三人の方に目もくれない。 「やっぱり、見つからないね」 「もしかして、トウヤのことですか」  シアはうなずいた。ティナもその名前を思い出したのか、訳しながら「ああ」とつぶやく。 「私のせいなんだよね、やっぱり」 「何言ってるんですか。トウヤなら制限線のあたりで湾に逃げましたから、きっとヴァナで無事にやってますよ」 「ハクト!」  シアの声が強くなる。 「正直に教えて」  そこまで言ったところで、ティナが言葉を切った。シアが早く訳せとうながすが、ティナは小さく首を振る。いやだ、と言ったのがハクトにも聞き取れた。シアはじれったそうにうめき、ハクトの腕をつかんで会話を試みる。 「ハクト、本当で、信じてる? トウヤ、生きるのコトが、信じてる?」 「はい」 「どう、して?」  つっかえ、何度も言い直してはいたが、意味は伝わった。ティナの方に目をやると、彼女は地面に視線を落としたきり顔を上げない。握った拳がかすかに震えていた。肩に手を置こうとすると、無言でその手を払われる。 「生きる、こト、とても難しいよ。ハクトの、生きてるは、とても嬉しい、こトだよ。どうして、信じてる、られる、の?」  どうして、とシアは繰り返す。ハクトは即答できずに口をつぐんだ。理由?  考えてみる。彼が飄々と現れるところはありありと想像できても、苦しみながら溺れていくさまは、どうやっても考えられない。つまり、これは。 「トウヤなら、大丈夫なんです。信じてますから」 「信じて、る……」  ラサの言葉でつぶやき、シアは小さくうなずいた。まるで予想もしなかった答えを返された新米教師のようだ。どう返事をすべきか、迷っているように見える。 「どうし、て? だって、よく、考えると、とても、難しいこトだよ?」 「友達を信じるのに、理由が要りますか」  ティナが顔を上げ、ぼそぼそと通訳を再開した。それに気付き、シアも口にするのをラサの言葉に切り替える。 「そうかんたんに割り切れるなんて信じられないよ。我慢してるなら言ってよ。私は不安なんだ。ハクシャダイトはもっともっと不安だと思う。私がもしヴァナに行ったら、きっと不安でたまらないよ。友達のことだって、きっと心配で心配で、そんな風に笑って、信じてる、なんて言えるはずがないよ」  かんたんに割り切れる。そんなつもりはないのだが、そう見えただろうか。ひょっとすると、信じてる、なんて言葉はただの格好つけか、そうでなければ自分を落ち着かせるための方便なのかもしれない。こんなとき、トウヤならどうするだろう。げらげら笑いながら、臭いこと言うんじゃない、と笑い飛ばす、そんな様子が目に浮かぶ。  嵐が去って静かになったばかりの水面に、大きな石を放り込まれたような気分だった。ハクトはシアの肩に手を置く。その手が震えたのは、きっと気のせいだ。 「俺に何があっても、俺ひとりの問題です。心配する人間はいません。せいぜいトウヤくらいでしょう。そう思うと、けっこう気が楽です。安心して異国の地を楽しめる。トウヤのことは心配してません。さっき言った通り、信じてます」  シアの目元が赤らんでいる。泣かせてはいけないとは思ったが、何を言えばいいのか分からない。 「それに、これからお世話になる、それもこんなに可愛い女の子を、わざわざ恨んだり嫌いになったりしようとは思いませんよ」 「ハクシャダイト、それ本当に言っていいの?」  ティナに問い返されて一瞬躊躇したが、思い切ってうなずいた。彼女は胡乱げな表情を浮かべながらも、ちゃんと訳してくれる。静かな水面が乱れたのならば、観光をやめてそこで水遊びでもすればいい。  シアは一瞬の沈黙のあと、笑顔とも怒り顔ともつかない複雑な表情で「分かっタよ」とうなずいた。  どこへ行くのかも知らされないままシアの後をついていくと、彼女はそばの貸し馬車屋で二頭立ての馬車を借りてきた。例によって乗用ではないが、大した問題ではない。  シアが手綱を取り、ティナとハクトが荷台に座る。わだちの跡もかすかな道をしばらく進むと、遠くに右手から左手に向かう水の流れが見えてきた。船を漕ぎだせば、渡るのにずいぶん時間がかかりそうだ。ゆるやかだが幅が広い。その向こうでは、立ちこめる霧が対岸のあるべきあたりを覆い隠していた。風はないが、霧までの距離はわずか半浬といったところだろう。今更ではあったが、河原に近づくことがためらわれた。 「フェルティナダ、あれ……霧ですよね」 「見たら分かるでしょう」  そばの低木に馬をつなぐと、シアは二人を手招きし、自分はさっさと歩き出す。杖をつきながらのハクトは遅れがちになるが、シアは特に気にしていないようだ。  医者の言うことなどまるで聞いていなかったかのように、シアはずんずん河岸に近づいていく。先ほどの低木を最後に、木は生えていなかった。やがて草むらも切れる。川からある程度の距離までは、木も草も生えていない、灰茶けた地面が広がっていた。よくある、流れ着いた石が積もる河原ではない。きっと風が強い日には、ここまで霧が流れてくるのだろう。霧に晒されれば、動物ばかりではなく植物も枯れてしまう。あの低木は、運良く霧を逃れたのだ。そう思うと、なんでもない木にもちょっとした親近感が湧いた。  ティナはハクトを助けるでもなく、急かすでもなく、半歩後ろをのんびり歩いてくる。 「あそこで、ハクシャダイトを拾ったの」  不意にティナがつぶやき、川がゆるやかに湾曲するところを指さした。 「ティナもシアも、すごく驚いたわ。たまに物が流れてくることはあるけど、大抵は板きれや魚の網で、人間が流れてくるなんて初めてのことだったから」  ちらりと背後の馬車に目をやる。馬たちは大人しく低木に繋がれていた。ハクトを拾った日も、彼らはこんな風に繋がれていたのだろうか。血なまぐさい荷物を担いで、街までの道を走らされる馬の姿を思い浮かべる。 「馬って、肉食でしたっけ?」 「やだ、肉食動物に車なんか牽かせたくないわよ。乗ってるうちに食べられちゃったらどうするの」  ということは草食なのか。ならば、血の匂いを嗅いで困ることもなかっただろう。そんなことを考えながら、一歩ずつ歩を進めていく。 「ところで、シアは何をしに来たんですかね」 「ラサから何か流れてきてないかどうか、確かめに来てるんでしょう。ハクシャダイトも、お友達のこと、探してみたらどう? 案外、その辺りに引っかかってるかもしれないわ」  どこか小馬鹿にするような口調でそう言って、ティナは肩をすくめた。 「まあ、見つけたとしても死体でしょうけど」 「失礼なことを言わないでください」 「現実を見てるだけよ。だいたい、人間みたいな大きなものが流れ着いてたら、釣りに来た人が見つけて拾ってるわ」  こんな霧に近い場所で釣りもないものだ、と思いながら川をのぞき込む。透明度は決して高くないが、劣悪な環境の中でも、いちおう魚は住んでいるようだった。 「ハクト、ティナ!」  川縁で水と戯れていたシアが、何かを手に戻ってくる。彼女が自慢げに広げたてのひらの中には、見覚えのある印を押した油紙があった。長いこと水で揉まれていたにしては、はっきりと印字を残している。 「柳葉印だわ」  横から覗いたティナが、嬉しそうに声を上げる。  故郷では馴染みの印だ。柳葉印は安心の印。都中に手広く展開しながらもその伝統の味を守る、有名な乾物屋の包み紙だ。ジュレスバンカートのはずれにも大きな店があった。 「コれ、ヴァナの?」 「そうよ。乾物をこれに包んでくれるの。魚とか水草とか、そのままじゃ長いこと保存できないでしょう? でもたくさん採れるし、これで内陸の工業地帯の人も食べていかないといけないから、干して乾燥させて食べる」  ティナの説明を、シアはしきりに感心しながら聞いている。  それにしても、目の前でこんなものを拾われてはたまらない。ヴァナとラサが霧を隔てて繋がっているなんて話はあまりにも荒唐無稽で、こんな証拠を見せられてもなお信じられない。当事者であるハクトがこれだから、他の住人など推して知るべしだ。  ぶるっ、と体を震わせた。春のまだ冷たさを残す風のせいか、それとも別のなにかのせいなのか、ハクトには判断しかねた。  帰りの鉄道馬車はそれほど混んでいなかった。それでもエンナで降りる人間は多い。肩はそこそこに動くようになったが、いまだ脚を固定したままのハクトに、鉄道馬車の乗り降りは少々手間だった。人が多ければなおさらだ。  ユノとの待ち合わせまでまだ時間があったので、駅の待合室で時間をつぶす。長椅子に腰掛けて行き交う人を見ているのは、それなりに楽しいものだった。ヴァナならば子供が着るような裾の広がった服を、ここでは女性が着ている。髪の色や目の色はさまざまだが、故郷とそう変わりはないようだった。暗い茶色、明るい茶色、たまに金髪や黒髪。目の色は大抵が暗い茶色だが、たまに青い目の人間も見かける。その割合も故郷と大差ない。 「霧の向こうって感じはしませんね。最南区にでも行けば、普通にこんな格好の人間がいそうですよ」 「それは最南区に対する偏見じゃないかしら。やっぱり違うと思うわ。……ところでハクシャダイト、あの黒い帽子の人、見える?」  まっすぐ見ないで、と言われ、ハクトはちらりとティナが示した方を見る。 「見えますけど、彼がなにか?」 「さっきからずっと、ティナたちの方を見てるの。ずっとよ」 「馬車を待ってるんじゃないですか?」 「違うわよ。西に行くならティナたちが乗ってきたあの馬車に乗るだろうし、東に行く馬車もさっき出ていったわ。でもあの人、ずっとあそこにいるの。気味が悪い」  黒い帽子を目深にかぶった男は、本に没頭しているようだった。しかしそう言われてみれば、時折こちらに視線をやっているような気がする。 「手洗いに行って来るね」  シアが席を立つ。男はシアの背中を目で追った。彼女が扉の中に消えてからも、男の視線は確実にそちらに向けられている。 「ね、やっぱりあっち見てる」 「茶にでも誘うつもりなんじゃないですか。シアだって、いい年頃の女性なんですから」 「そうかしら」  シアが戻ってくるとすぐに、駅の時計台から太鼓の音が聞こえた。 「そろそろだね」  シアの声に重なるように、待合室に入ってきたユノが「こんにちは」と声をかけてきた。 「今日はやけに幌馬車が多かったな。休日だってのに」  エンナの停車場を出てしばらく行ったところで、ユノが首をかしげた。街の入口に建つ石造りの門をくぐると、そこから先はもう見渡す限りの草原だ。畑や家、そして家畜の群れがまばらに見える。 「あんまり立派な馬車が多いと、ちょっと悲しくなるよ」  つぶやくユノの顔に、それほど切迫感はない。並足で歩いていた馬が鼻息と共に首を振った。 「お前も立派な馬車が引きたいか?」  心なしか馬が早足になったような気がする。遠くに、ロカへの分かれ道を示す看板がかすかに見えてきた。草原を裁ち切るように延びる道は、広いところでも舗装されていない。木製の車輪から、細かな振動が直に伝わってくる。 「ミキが花術士になって頑張ってくれりゃあ、きっとかっこいい乗用馬車も買えるぜ。それまでの辛抱だ」  ハクトは改めてユノの全身を見回す。上着は縫製もしっかりしているし、靴も履きやすそうなつくりだ。安物ではない。ロカの街では比較的裕福に見えるグレン家の長男でも、街の金持ちに比べればまだまだということなのだろう。 「フェルティナダ、花術って儲かるんですか?」 「まあ、花術士がひとりいれば収穫高は上がるでしょうしね。シアだって、家賃を安くしてもらう代わりに、よくユノの家を手伝ってるわよ」  それは知らなかった。そもそも花術士というのが何をするのかもよく理解していないことに気付き、ハクトはシアの方に視線をやった。荷台の鉄柵にもたれかかったシアは、ぼんやりと道の彼方を見つめている。 「そういえば、霧の毒はもう大丈夫なの?」  馬の足音と車輪の立てる音に負けないよう、やや声を大きくしてユノが尋ねる。 「うん。ちゃんと目を醒ましてるし、頭も働いてる。でしょう?」  突然話を振られて、ハクトはうなずいた。 「ほんとうに運が良かったよ。あのまま目を覚まさない可能性もあったんだ」 「船の機関室が、霧から守ってくれたのかもしれません」  ティナが「機関室ってなんて言うのかな」とハクトの腕を小突いた。 「部屋でいいですよ」 「分かったわ」  シアはそれでも納得したようだった。「なるほど」とうなずいている。 「そういえばシア、どうして『霧の向こう』なんかに興味を持ったんですか?」 「おれも知りたい」  ユノが口を挟む。「話してなかったっけ?」とシアが首をかしげた。 「たしかメグには話したんだけどな」 「あいつはおれには冷たいんだよ」  不機嫌そうな声が返ってくる。馬が道ばたの牛の群れに気をとられてわずかに左に逸れた。ユノが手綱をぐいと引く。 「大したことじゃないんだよ。私が小さかった頃、よく歌ってた歌があってね。手遊びの歌なんだけど」  そう言って、シアは口を開く。暖かい風に乗って、透明な歌声が流れていった。単調な曲はいかにも子供の手遊び歌という風情だ。  ふと、その曲に聞き覚えがあるような気がして、ハクトは記憶をかき回す。 「シア、その続き、もしかして」  ハクトが続きを歌う。シアは目を丸くした。 「知ってるの?」 「霧の向こうにも、同じ歌があるってか?」  ユノも驚いたように振り返る。ティナがつばを呑み込む音がした。 「ハクト、もう一回歌って。最初から」 「歌詞はうろ覚えなんですけど」 「いいから!」  ユノが馬の歩調を緩めた。揺れる馬車の調子に合わせ、ハクトは歌う。 「仲良しこよし 花のかんむり  虹のくさびを 打ちこめば  すっかりばらばら 十六本」  ティナがシアの腕を掴み、早口で何か叫んだ。ユノは馬車を止めて振り返る。馬車はいつのまにかロカへと向かう細い道に入っていた。馬車はほとんど通らない。 「同じだ」  ユノのうめき声は、ハクトにも聞き取れた。ヴァナの言葉と音が似ている。毎日聞き続けているうちに、少しはこちらの音に慣れてきたのかもしれない。 「続き、覚えてる?」 「つ、続きですか? ええと、ああ、確か……」  額に手をやった。今は人目につくので拡大鏡はふところの中だが、やはりここに革帯がほしいと思う。どうにも落ち着かない。 「ひとつひとつを 綿でくるんで  ぐるりとまるく 並べれば  とってもきれいに なるでしょう」  シアが何か叫びながらハクトの首にかじりついた。笑顔でハクトの頭を撫でる。そのはずみに馬車が勢いよく揺れた。ユノが立ち上がってつりあいを取る。 「知ってるんだね? ヴァナにもあるんだね?」 「いや、俺はこの歌で遊んだ記憶はないです。どこで聞いたのかも覚えてないし」 「知ってるなら十分だよ!」  ティナの通訳なしでも言いたいことがわかりそうなほど、シアは興奮していた。 「変な歌だと思わなかった?」 「え……でも、こういう歌って多かれ少なかれ変なものですし、別に変だとは」 「でも、意味を考えたらすごく変でしょう?」  シアが多少なりとも落ち着いたのを見てか、ユノが再び馬車を進める。時ならぬところで止められた馬は、人間たちのことなど構わず、どこか不機嫌そうに歩き出した。 「それで、その歌がどうしたんですか?」 「虹のくさび、って言われて、ハクシャダイトなら何を思い浮かべる?」  首をかしげた視界に、空にそびえる虹柱が見えた。「あれ」と指さすと、シアは「そう」とうなずく。 「私がティナくらいの歳の時に、学校の倉庫で古い絵を見つけたの。その絵に描かれた空にはね」シアの指が南の空の虹柱に向けられる。「虹がなかった」 「単に、書き忘れたとか、方角が違ったとか、でなければ省略したとか、そんなところじゃないんですか。太陽や月だって描くとは限りませんよ」 「そんなはずないよ。その絵、景色をぐるっと一周描いたものなんだから。それにあの絵には、太陽はあった」  虹はハクトが生まれた時にはそこにあったし、百年前にもそこにあった。おそらく、そのずっと前から。それはいつも南の空にあって、霧の中から中天へと延びていく。 「だから、私は思ったの……確信したって言ってもいい」虹をにらみながら、シアはわずかに声を落とした。「あの歌に出てくる虹のくさびは、あの虹柱のことなんだって」  波打つ緑の草原、うずくまる動物のような濃い緑の森、今はまだ茶色の畑、なだらかな丘の向こうは見えないが、はるか彼方に青くかすむ山々、そして霧の薄もや、空との境目、虹。  それはあまりにも当然の光景だ。霧と虹は、故郷でもこちらでも変わらない。 「じゃあ、他はなんなんですか? 綿とか、花とか」  ハクトが問いかける。ユノが地平線を指さした。 「綿は、霧のことじゃないか」  花をくるむ綿。山の彼方に広がるもや。ハクトは右目を閉じる。遠すぎて意味がない。 「じゃあ、花は……」 「都」  ハクトの言葉をティナが引き継いだ。シアがうなずく。 「だから私、あの歌は創世記の一片じゃないかと思ってる」 「つまり、どういうことだ?」  ユノが目を細めた。ハクトは歌詞をもう一度なぞる。仲良しだった花は、虹に引き裂かれて綿でくるまれる。都が、虹に引き裂かれて霧にくるまれる。仲良しだった、都が。 「そうか」  道の彼方に、こちらのあとを追うように走る幌馬車が見えた。雨風を防ぐことができて便利だろう。晴れているのに幌を張っているのは、いささか勿体ない気もした。 「『霧の向こう』とこちら側は、もともと繋がっていたってことですか」 「そう」  ティナが訳すまでもない。シアは断定するように言った。 「かつて世界には十六の都があって、互いに繋がってた。そのうちの一つがこのラサで、一つがハクシャダイトやティナの故郷であるヴァナ」  ユノが小さく息をついた。肩をすくめる。 「なるほどな。思ってたより分かりやすくてほっとしたよ」 「それはよかった」シアがユノの頭を撫でる。くせのない髪が乱暴にかき回された。「私も、思ってたよりかんたんに分かってもらえて嬉しい」  ゆるやかに右へ曲がる道を抜けると、坂の下にあるロカの街が一望できた。  真っ先に異変に気付いたのはシアだった。ユノの肩を乱暴につかみ、彼の耳元で命じる。 「ユノ、速度上げて」 「どうしたんだよ、いきなり」 「いいから」  馬車が大きく揺れ、ハクトは慌てて鉄柵に掴まる。いくぶん近づいたところで、ハクトにもシアが馬を急がせた理由が分かった。家を、とりわけ玄関扉のあたりを覆うように伸びる蔦が、壁から離れて垂れ下がっている。鍵をかけて出たはずの扉が開いているのが見えた。 「降りるね!」  叫んで、シアが馬車から器用に飛び下りた。ユノは慌てて馬を止める。はずみでティナが飛ばされそうになるのを止めるべく、ハクトは手を伸ばした。ティナがハクトの袖口を掴む。あそびの多い上着が引っ張られ、ティナは一瞬目を閉じた。すぐに自分が無事であることに気付き、安堵の息をつく。  ユノを置いてティナとハクトが家の中に駆け込むと、散乱した紙束が目に入った。シアの私室の扉が開き、そこから紙があふれ出している。中をのぞくと、戸棚や箪笥が開け放たれ、入っていた紙束が床いっぱいに放り投げられていた。一口で言うなら、荒らされている。 「泥棒……?」 「そうみたいだね。金目のものは盗られてないや、変なところに隠したかいがあった」  ティナがつぶやくと、すぐにほっとしたような声が返ってきた。薄手の絨毯をめくり、シアは床板をはめ直している。その下に大切なものが入っていたのだろう。 「何か盗られてない?」 「掃除すれば分かると思う」  落ち着いた様子で答え、シアは「ユノに帰るよう言って」とティナに声をかける。しばらくして馬車が走り出す音が聞こえてきた。すぐにティナがかんしゃくをこらえるような、一触即発の表情で駆け戻ってくる。 「犯人に心当たりはあるんですか?」  ハクトの予想を裏切り、答えは「ある」というものだった。 「ありすぎて分からない」  ティナがシアを怒鳴った。おそらく「のんびりしてる場合じゃない」とでも言っているのだろう。上着の胸の辺りをつかまれながらも、シアは馬でもなだめるようにティナの肩を叩いていた。 「だいじょうぶ。初めてってわけじゃないから」 「どういう意味ですか」 「うん、理由はいまだにはっきりしないんだけどね」  今夜の献立でも言うようなお手軽な調子で、シアは小首をかしげる。 「『霧の向こう』を研究してるってばれると、なぜか狙われちゃうんだ」 「狙われるって何ですか!」 「大したことじゃないよ。たまに脅迫状が来たり空き巣に入られたりするくらい」 「それじゅうぶん大したことですよ! ラサの人ってそんな日常生活を送ってるんですか?」  ティナが「そんなわけないでしょ!」と叫んだ。やっぱりそうか、と腕組みするハクトに「なんとか言ってあげて」とすがりつく。 「ま……まあ、本人がいいって言うならいいんじゃないですか」 「良くないわよ! この家に泥棒が入るの、何回目だと思ってるの!」 「だいじょうぶ!」  シアがティナを背中から抱きすくめた。ティナの手を握り、心配ないとささやく。泣く妹をあやす姉のようだ。先日、ティナになぐさめられた時のことを思い出す。あれはシアゆずりだったのか。しばらくそうしているうちに、ティナも気が抜けたのか静かになった。ハクトの視線に気付き、シアは歯を見せて笑う。 「彼ら、お金が、に、興味ない。だいじょうぶデス!」 「馬鹿ですか、あなたは!」  シアの頭を反射的に叩いていた。なぜ叩かれたのか分からないようで、シアはきょとんとした顔でハクトを見ている。 「お金が目的じゃないなら、何を狙ってるんですか」 「えーっと」考え込むシアの言葉を、ティナがなかばあきれた様子で訳してくれる。「たまに調べものをした帳面とか、日記帳とかがなくなってるよ。恥ずかしいからやめてほしいんだけどなあ。たぶん、私がなにを調べてるか知りたいんじゃない? 業績の横取りを狙ってるんじゃないかな、と思ってる」 「だったらどうして脅迫状が来るんですか。そもそもどういう脅迫ですか」 「あれは分からないなあ。研究やめないと殺すぞって言われるんだけど、なんでやめなきゃいけないのか理由を教えてくれないんだもん」  あっけらかんとそう言われて、怒る気も失せた。 「憲兵とか、いないんですか」 「いるけど、こんな田舎まで来てくれないよ。ヴァナでは来るの?」  ハクトとティナは顔を見合わせる。二人とも都会の出身だ。そんなことは考えてもみなかった。ティナも同様らしい。 「別荘地はある意味、田舎って言わないよね……」 「フェルティナダ、別荘なんか持ってたんですか?」  ティナはあっさりうなずき、「コウランゲートに」と有名な別荘地の名前を挙げる。西区の南の方にある高原だ。霧にこそ近いが、水と野菜がおいしい風光明媚な土地として知られる。そう言えば家も中央区の城の近くだと言っていた。中の下程度の生活を送ってきたハクトには想像もつかない世界だ。 「一年ちょっと前にあそこで起きた崖崩れのことって、報道されたかしら」 「聞いたことはある気がします。雪解け水やら伐採やら地面の保水力やらがどうこうっていう、大規模なやつですよね。霧があおられて街の方まで流れてきて、緊急避難勧告が出たとか」  心の距離は遠いが、いちおうはジュレスバンカートと同じ西区内だ。そんな報道についての記憶がかすかにあるような気がする。金持ちどもめ、いい気味だ、と友人と話していたことを思い出し、参ったなと額を押さえた。そんなことは口が裂けてもティナには言えない。むっとする彼女の顔が見えるようだ。 「ティナはその時、ちょうど山に登ってたわ。足元がごっそり崩れて、目が覚めたらラサにいた。びっくりしたわよ。たまたまシアが来てくれなかったら大変だったと思うわ」  そういえば、とハクトは考える。自分のことばかりに必死で、ティナのことを聞いていなかった。当然、それなりの事情があってしかるべきだったのだ。そうそう霧など越えられるものではないだろう。 「とにかく、コウランゲートにはちゃんと憲兵がいたわよ」 「まあ、あんなところなら泥棒も入りがいがありそうですからね」  たぶん田舎にも憲兵がいるだろう、という結論に達してそれを伝えると、シアは驚いたように口を押さえて「信じられない!」と叫んだ。 「ヴァナの都主様ってすごいのね」 「議員さんが自分の地元にお金を使いたがってるだけよ」  すごいんだね、とシアがうなずく。そういえばラサには議会がないと言っていた。都主様というのが、城に住んでいるという偉い人間のことなのだろう。 「まあいいや。とにかくロカには憲兵は来ない。だからあきらめて、片づけをしよう。手伝ってくれるよね」  強引に押し切られ、ハクトとティナはうなずいた。  シアは布靴に履き替え、散らかった部屋の中をつま先立ちで歩き回りながら、乱雑とも言える手つきで紙束を整理していく。ティナが思い立ったように、次の間へ続く扉を開けた。 「シア!」  居間から続くその部屋は、どうやら物置になっているらしい。普段は鍵がかかっているのだが、その鍵は金具ごと外されていた。  ティナが早口でなにか喋る。シアが唇を引き結んだ。ティナのあとを追って部屋に入っていく。それに遅れて、ハクトは足を引きずりながら部屋の中を覗いた。  衣装棚や正月の飾りといった、どこの家にでもありそうな雑貨に混じって、一抱えほどある木箱が口を開けていた。床に置かれた木箱の中には、やわらかそうな布が敷かれている。 「やられたわ。これが目的だったんでしょうね」 「なにが入ってたんですか?」  ティナは小さく肩をすくめる。 「ハクシャダイトと一緒に拾った、発動機の一部。血まみれで臭くて壊れてて、どうしようもない代物だったわ」  だからって盗人にくれてやる義理はないけど。そうつけ加え、ティナは腕組みする。  つられて深刻な表情になったハクトの背中を、シアがぽんと叩いた。打撲傷の残る背中がじんわりと痛み、ハクトは思わず変な声を上げる。 「なに暗い顔してるの? 調査はしたし、外見は頭に残ってる。気にしなくていいよ。今日、新しい資料だって拾ったしね」  資料とは、あの乾物屋の包み紙のことか。シアの声を伝えながら、ティナは複雑な表情で箱を見下ろした。ティナ自身はしっかり気にしているのだろう。  遠くから馬が駆け足で走ってくる。馬車は引いていないようだ。 「……で、どうしてこうなるんでしょうね」  二人で住むには十分な広さなのかもしれないが、この家は決して大きいわけではない。そこで動いている人影を数えながら、ハクトは肩をすくめた。  あれだけ散らかっていたはずの紙は、今やあらかた片づいていた。ユノ、ミキ、メグの兄妹は率先して掃除にあたっている。どこから来たのか知らないが、いつの間にかオースンとリズも加わっていた。「こんな危ないところに来ちゃいけないよ、リズ!」とオースンが飛び込んできたのはついさっきのことだ。相変わらず、動くたびに装身具が音を立てている。  ハクトは居間の隅で立ちつくしている。いまだ歩き回るのは難しいうえ、紙の内容を見て判別しようにも、ハクトにはこちらの言葉が理解できない。紙に書かれた言葉ならある程度は理解できることが分かったが、それにも限度というものがあった。ティナはハクトを一人にしてはおけないと、彼のうしろをついて回ってくる。気遣いはとてもありがたかった。 「物好きな人が多いんじゃないかしら。泥棒なんて、ほかの家にはめったに入るものじゃないし」 「ああ、なるほど」  てきぱきと指示を出すシアを見ながら、ハクトは小さくため息をつく。たくましい少女だ。外の草地に生える黄色い花を思い出す。刈っても刈っても、いつの間にか増えてしまう花。茎が長く、輪飾りが作りやすいので女の子には好かれる。けれど大人にしてみれば、これほど面倒な花もない。  かやの外に置かれたようで、ハクトは一抹の寂寥感を覚える。意味もなくとなりのティナの腕をつついた。 「どうしたの?」  とは言え、特に話すこともない。仕方がないので「フェルティナダ、家族はいるんですか」と尋ねてみた。 「いるわよ。兄と弟が一人ずつ、それから両親と祖母。特になにもなければ、元気にしてるんじゃないかしら」 「崖崩れに巻き込まれたのはあなただけなんですか?」 「そうね、勝手に柵を越えて遊びに行ったのはティナだけだから。霧なんて怖くないと思ってたのよ。ほら、中央区に住んでると、ふだん霧のことなんて気にしないでしょう」 「西区でも、そう気にするものじゃありませんよ。俺だって、船が流されてはじめて制限線のことを思い出したくらいです」  へえ、とティナが感心したような声を上げた。シアが「ありがとう!」と頭を下げている。リズとオースンが互いをほめそやしながら出ていった。兄妹は彼ら二人を見送って、まだ居間に居座っている。メグの手には一通の手紙があった。シアがそれに気付き、「返して」と手を伸ばす。メグが裏面に書かれた差出人の名に目を留めた。 「エリン・ベリー……って、もしかしてシアのお母さん?」 「そう! 帰ってこいとか研究やめろとか、馬鹿なことしか言わない私の母親!」  メグの手から手紙を奪い取ると、シアはそれを紙ばさみに入れる。角が折れている紙も多い中で、壊れ物を扱うようなていねいな仕草だった。 「いいですね。俺には母親がいなかったんで、ちょっとうらやましいです」 「そういえば、出ていったとか言ってたわね」 「はい。俺が四歳の時です。よほど腹に据えかねることがあったのか、出ていったきり会いにも来ませんでしたよ。おかげですっかりおばあちゃん子になりました」  へえ、とティナが意外そうな声を上げる。 「でもシア、お母さんが言うことも分かるよ。お願いだから、危ないことはしないでね」  メグが腕組みをして、したり顔でそんなことを言う。ティナよりも幼いはずの双子がシアに説教をする場面は、見ていて微笑ましかった。ティナもくすくすと笑いながら会話の内容を訳していたが、不意に眉をひそめる。 「どうしたんですか」 「いま訳すわ」  少し考えてから、ティナはメグの仕草を真似て喋りはじめる。 「今朝、クルーさんの家の犬が村はずれで倒れてたの。そう、あの大きいやつ。うん、死ぬようなことじゃないわ、ただ苦しがってるだけ」  シアが打つ相槌は省略して、メグがそうするようにまくしたてるティナは、まるで普段とは別人のようだ。ハクトのような年長者と物まねで遊ぶような性格には見えないから、余計に新鮮なのだろう。ミキがこちらを向いて口元を押さえた。笑いをこらえているらしい。 「見つけたのはクルーさんのところのジル姉さんだったそうよ。でも、ジル姉さんが犬を連れて帰ろうとしたその時、大変なものを見てしまったの」  やたらともったいをつけて語るメグの話を、手を止めたシアは嫌がる風もなく聞いている。こうしてみると、まるで仲の良い姉妹のようだ。 「犬が倒れていたのは草地だったんだけど、その草が、ところどころ焼けたように枯れていたっていうの。こんなところまで霧が流れてきたんじゃないか、いやあれは霧じゃなくて化け物だ、って、クルーさんの家は大騒ぎよ。そして、なにより怖いのはね」  メグはゆっくりと、低い声でささやく。 「その焦げあとは、ロカの大通りに向かって続いていたそうよ」  どうだ、とばかりに得意げになるメグの頭を、シアは軽く叩いた。 「ありがとう。でも、私は大丈夫だよ。なんでか分かる?」  首を傾げるメグに、シアは肩をすくめてみせた。 「私には、急ごしらえだけど家族がいるからね」  その言葉をティナが訳す前に、シアはハクトの方を向いて笑った。会釈を返してしまってから彼女の言葉の意味を知り、ハクトはばつが悪そうに頬を掻く。彼女にとって、どうやら二人は家族らしい。ティナはともかく、自分までも。  難しい顔をするハクトの背中を、ティナが勢いよく叩いた。 「さて、ティナ達も静かなお茶の時間のために努力しましょうか。ちょっと遅くなったけど」  少し考えてから、ハクトはティナの誘いに乗ることにした。ミキとユノは、掃除と言うより宝探しに熱中している。そろそろ帰さないと、いつまで経っても片づけが終わりそうにない。  静かな街に銃声が響いたのは、翌日の夕方のことだった。