1  水面が遠い。青くかすんだ視界の向こうに、ゆらゆらと光が揺れる。  深い水の底に沈みながら、その光に向かって手を伸ばした。腕が重い。袖を留める覆いの帯はいつの間にか外れていて、慣性と水流のために、広がった袖は生きているかのように腕に絡みつく。手袋の先を切り落としたような形の袖覆いは、指先をすり抜けるように外れてしまった。袖口を縫い取る銀糸が、水の中でも鮮やかに目に映る。  唇から漏れ出る泡が、ぽくっ、と音を立てて水面へと昇っていった。置いていかれる。そう思って手足を掻くが、泡はただ遠くなるばかりだ。塩気の混じった水が目に染みる。  ここは、そうだ、技師学校の裏手にある水路だ。喫水の深い船でも引き入れられるようにと、昔の校長がたいそうな金をかけて整備した、自慢の設備だったはず。大きな船の発動機は、技師にとって重要な教材だ。それにしても、なんてこった。同じ溺れるなら、せめて湾で溺れたかった。  突然、伸ばした腕を掴まれた。腕の先を見ると、長い三つ編みを揺らす相棒の姿がある。そういえば相棒、お前、泳げなかったんじゃなかったっけ。しかしどうやらそれは思い違いだったようで、彼はハクトの腕と脚を掴むと水面へと泳いでいく。そんなに強く掴まなくてもいいのに。痛い。放せ、こら、放せってば。  脚を掴む指の鋭い爪が布を裂き、肌を破る。ぬるい水の中に赤いものが混じっていく。声の代わりに泡を吐き出しながら身をよじる。水面はどんどん近づいてくる。  どこか遠くから歌が聞こえてきた。歌は水路の流れと同じように、ゆったりとした律動を刻み、水の中だというのに痛いほど耳に残る。新鮮な空気は目の前だ。  直後、視界がいっぱいに開けた。 「うわっ!」  見えたのは、青空――では、なかった。  白い天井。まばたきするごとにはっきり見えてくる。荒い麻布を張った、簡素だが珍しいつくりの天井だ。寄宿舎の塗り天井とも、生家の板張りの天井とも違う。 「ゆ、……夢?」  自分の声は、間違いなく耳に届いた。決して高くはない、ほどほどに通る声。  体は濡れてなどいない。さっき見たのは夢だ。しかし、夢の中で掴まれた腕と脚は、今も変わらず痛んでいる。  落ち着け。自分にそう言い聞かせ、ハクトはじっと天井を見つめた。今はおそらく昼前。ひどく腹が減っている。ところで、どうしてこんなところで惰眠をむさぼっているのだろう。全身がだるく、しかし風邪を引いたときと違い熱っぽくはない。  夢を見る前のことを思い出す。この寝台で眠りについたわけではない。しばらくして、ようやく霧のことを思い出した。  そうだ、霧。あの水難事故までは夢ではない。船が霧に飛び込み、霧に浸かり、乗員であったハクトもたっぷり霧を吸ってしまった。喉の奥に、あの不快な湿り気が残っているようだ。  しかしそうだとしたら、ここは一体どこなのだろう。気を失ってはいたが、あの状況で誰かに助けられるはずもない。ならばこれは夢から覚めた夢なのだろうか。それともここは死後の世界なのか。考えはじめたとき、不意に横合いから声をかけられた。 「あの。ちょっと、いいかしら」  右手の、声がした方に首を向ける。人間がいたことに初めて気がついた。勢いよく首をひねったその時、左肩から首筋にかけて引きつるような痛みが走る。工具を整備したあとの肩こりを百倍くらいにしたら、きっとこんな感じだろう。思わず布団の端を掴んだ。そこでふと、爪がずいぶん伸びていることに気づく。その手を顎にやると無精ひげが指を刺した。ハクトはしばらく息を整え、改めて声の主を見る。今度は慎重に、視線だけを右手の方に向けた。  そこにいたのはまだ十かそこらの少女だった。背中まである金髪を二つに結っている。背もたれのない三本脚の椅子に座って、のんびり足を揺らしていた。視界の端に映る刺繍のない赤い靴は、土で白っぽく汚れている。彼女はハクトの返事を待つように、手を胸の前で組み、人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。 「はい、ええと、その前に……失礼ですが、ここは?」  ハクトが訊ねると、少女は自分の仕事を思い出したとでもいうように姿勢を正した。偉い議員先生の物真似をする子供のように、真面目くさった調子で、えへん、とせきばらいをする。ぬるい春風が、飾り格子の窓から吹き込んできた。 「家。……じゃないわよね、ロカって街よ。あなた、名前は?」  ロカ。耳慣れない地名だ。吹いてくる風は潮の匂いがしないから、湾沿いの街ではないのだろう。彼女は医者の娘かなにかだろうか。 「俺の名前ははハクシャダイト・グレイダームです。あなたは?」 「フェルティナダ・リチカート。ティナって呼ばれてるわ。ハクシャダイト、愛称はハクトでいいのかしら?」 「ええ、そうですが」  いきなり初対面の人間に愛称を尋ねるとは失礼な娘だ。そう思ったが、彼女の年齢を考えると怒る気にもなれない。ハクトの渋面に気付き、ティナは小さく首を振った。その顔に、年齢相応のいたずらめいた笑みが浮かぶ。議員ごっこはもうおしまいらしい。 「変なこと聞いちゃって、気分を害したらごめんなさい。ティナはちゃんとハクシャダイトって呼ぶわ。ただ、ちょっと知りたかっただけなの」  悟ったような大人びた口調。時折どこかの方言のような音調が挟まる。その度にティナはわずかに眉をひそめ、ゆっくりと、より文語的な単語で言い直す。これくらいの年齢の子供なら、初対面の人間にも敬体を使わないのは不思議ではない。 「ねえハクシャダイト、あなたの出身はどこ?」 「ジュレスバンカートです。湾沿いの」  正確を期すならば、その街の東側にある技師学校の寄宿舎がハクトの家だ。生家があった場所もそう遠くない。ティナは首をかしげ、自信のなさそうな声で「西区だったかしら」と尋ねる。その質問が引っかかったが、ハクトは黙って頷いた。肩こりや筋肉痛とは違う、ぴりっとした痛みが背中の表面を撫でていく。根拠はないが、きっと長く霧に触れたせいだろう。 「じゃあ大分遠いわね、ティナは中央区のお城の近くに住んでたの」 「中央区? ここはどこですか」 「いずれ分かるわ。まずは腹ごしらえをすることね。ずっと寝てたんだから」  ティナはハクトの頭を撫でる。母親じみた仕草というよりは、ままごとの母親役のようだった。彼女の言葉に応えるように腹が鳴る。たとえ全身が重くても、あちこちを包帯で巻かれていても、体は正直だ。  改めて手足を動かしてみる。左肩から胸にかけて、額、それから左足に包帯の感触があった。わずかに体を動かすにも、その存在が鬱陶しい。左膝から下には添え木が当てられているようで、足首も動かないように固定されている。 「それと、左足はずいぶん腫れてるから、動かそうとしちゃ駄目よ」 「ちょっと待ってくださいよ。俺にはまだ、何が何だか……」 「ティナにも分かんないわ。とにかく話はごはんのあとよ。ちょっと待ってて」  そう言うとティナは椅子から下り、木製の扉を開けて出ていった。はめ込まれた飾り格子には、こちら側から真新しい紙が貼られている。外枠は鮮やかな朱色だ。ティナの背中まである髪の先が、ぴょこぴょこと別の動物のように揺れる。引き戸を開く時の賑やかな音は、金属製の車輪が軌条の上を転がっている証拠だ。硬木製の車輪と軌条ではあんな音は鳴らない。儲かっているのだろうか。それにしては壁の質が悪い。  ハクトは天井に視線を戻した。先刻の反省を生かし、ゆっくりと首を巡らせる。布団は軽い。右手を動かしてみたが、特に痛みはないようだった。その手でふたたび顎に触れる。早くひげを剃りたい。左手を動かそうとすると、やはり肩がぴりりと痛む。右足はそれほど問題はないだろう。ゆっくり曲げてみるが、とりあえず痛みはない。足の添え木の意味を考え、左のつま先をそっと動かしてみた。覚悟していたほどの痛みはない。しかし足首と膝は軽く曲げた格好のまま、断じて動かすまいとするように固められている。夢にまで見るほどだから、それなりの怪我をしているのだろう。  左足の膝から足首にかけて、肌に刺すような痛みが走る。奥底からも、じくじくと染み出すような痛みを感じる。先刻からずっと続いているものだ。折れているのかもしれないが、それだけではないだろう。気を失う前に、発動機の加熱部が足に当たったことを思い出す。外装である断熱材も相当加熱されていたから、ひどい火傷になっているかもしれない。  布団から右手を出して、握ったり開いたりを繰り返す。ハクトが着ているのは男物の上着だったが、袖の長さは合っているのに生地がだぶついて仕方ない。手を上げると袖がまくれ、肘から前腕の半ばにかけて擦り傷を負った肌が見えた。傷の存在に気付いた途端にかゆみが襲ってきたので、思わず掛け布団に傷口をこすりつける。布団は綿製らしく、寄宿舎の麻布団にくらべると肌にやさしい。  ふと気がついて額に手をやった。拡大鏡の革帯の代わりに、きつく巻かれた包帯が手に触れる。どうやら五体満足でいるようだが、ここにあったはずの拡大鏡はどうなったのだろう。ハクトが気をもんでいると、深皿を盆にのせたティナが入ってきた。 「お待たせ」  椅子のそばにあった文机に盆を置き、ハクトの背に手を添えて上体を起こす。腹筋に力が入らないのは空腹のせいか。皿から立ち上る湯気には、わずかに香草の匂いが混じっていた。おもゆに近い粥に木製のさじを添え、盆ごと布団の上に置く。 「食べられるかしら? お腹の調子はどう?」 「大丈夫です」  あのとき噛んだのか、右下の犬歯のあたりで唇が腫れていたが、今は何でもいいから腹に入れたかった。うす茶色の粥にさじを入れ、すくって口に入れる。  勢いよく一口。 「ぶえっ!?」  直後、思い切り粥を吹き出した。熱さのせいではない。すなわち―― 「甘っ! 何ですかこれ!」 「口に合わない?」  それどころの話ではない。見た目を完全に裏切るべたべたした味付けを前に、ハクトは無言で皿を見つめる。素材の自然な甘味、などという段階はとうに過ぎていた。明らかに砂糖、いやそれに加えて樹液や蜂蜜、そのほか思いつく限りの甘味料が水分を駆逐する勢いで混ぜ込まれているようだ。さじですくった限りではとろりとしているが、味のほうは口の中で砂糖が再結晶化しそうなほどだ。これで歯を抜くようなことになったらお前のせいだ、とハクトは心の中で毒づく。 「あなたが作ったんですか、フェルティナダ」 「ええ。だけどごめんなさい、味覚の違いを忘れてたティナが悪かったわね」  悪びれたふうもなく、ティナは肩をすくめる。  ハクトは改めて、粥をゆっくり飲み込んだ。喉の奥を粥が落ちていくたびに、風邪の日の喉を水で潤した時のような不快感が走る。口の端についた粥を手でぬぐうと、粥の水分が糸を引いた。蜂の巣を取って蜂蜜を食べる、茶色い熊の姿が思い浮かぶ。 「まあ、じきに慣れるわよ。ここの人たち、みんなこんなものばかり食べてるんだから。歯が痛くならないのが不思議だわ」 「ちょっと待ってください、それじゃあ」  ティナは自分と同じ懸念を抱いている。それでもやめる気配がないということは、これはティナの料理が下手なのではなく、ロカというこの街の食べ物がハクトの口に合わないということか。いや、それにしてもこの甘さはどうかしている。こんなものばかり食べていたら死んでしまいそうだ。少なくとも、尿に糖分が混じる日は近い。 「お望みなら、西区風の味で作ってもいいわ。でもとりあえず、今はそれを食べなさい。甘いものでも摂らないと、この先ついて来れないわよ」  ティナは渋面で細く息を吐いた。きっと自分もこんな顔をしているのだろうと思う。 「どういうことですか」 「ティナはハクシャダイトに聞きたいことがいっぱいあるの。ティナだけじゃないわ、みんなあなたに興味津々。だからハクシャダイトはこれから、ティナの質問攻めに遭わないといけないの。そのためには体力が要るでしょう」 「意味がわかりません」  ティナは首を傾げ、「そうかしら」とうそぶく。演技めいた仕草とは裏腹に、表情はあいかわらず渋いままだ。ハクトは彼女から視線を逸らし、甘い粥を口に運ぶ。ハクトが諦めたことを悟ったのか、ティナはすまなそうな表情を撤回し、身を乗り出すと布団の上に手をついた。厚い掛け布団は刺繍ひとつない質素なものだ。布団だけではない、この家中にそんな気質が感じられる。ティナの服は無地で、胸のところで固く結んだ帯はえんじ色、裾と襟、袖口の飾り布も落ち着いた色だ。生地は必要十分な量のひだを作りながら、ティナの膝下まで届いている。 「食べながら聞いて、ハクシャダイト。あなたは五日前、河岸に流れ着いたところを発見されたの。機械の残骸と一緒にね。機械が硬木製だったことに感謝しなさい、金属製だったら今頃沈んでたわよ。歯車があなたの左足を噛んでなかったら、流れ着いたのは死体だったかもしれない」  すると、左足を掴んだのは相棒の手ではなく歯車だったというわけだ。しかしおかしいな、とハクトは首をひねる。ティナは河の名前を言わなかったが、西区の河と言えば中央区との境を流れるトロップクランデ河だけだ。しかし制限線を越えるまで西に流されたのだから、中央区との境などに流れ着くはずはない。距離四百、というトウヤの声が耳によみがえる。ほかにも川はあるが狭い水路のようなもので、船舶の立ち入れるような川はそれほど多くない。怪訝な顔のハクトに構わず、ティナは話を進める。 「機械と拡大鏡からして技師だってことは分かったけど、それ以外は何もわからなくて……それから色々あって、ティナたちがハクシャダイトの世話をすることになったの」 「記章があったはずですが、まあ外れてるでしょうね。ところで、拡大鏡は無事なんですか」  これ、と右目の上、拡大鏡があるべきところでこぶしを握る。技師学校に入って三年間、一日の大半を一緒に過ごしてきたせいで、見えるところに拡大鏡がないとどうも落ち着かない。工具と並んで相棒のようなものだ。もう片方の相棒である工具は金属だから、さすがに諦めるしかないだろう。ハクトが発動機の残骸と一緒に流れ着いたということは、船はおそらく大破していて、中身の回収は望めない。 「大丈夫よ。今は物好きなひとたちに興味本位でつつき回されてるけど」 「あれはおもちゃじゃないんですよ。返してくれるよう頼んでください」 「あとでそう言っておくわ」  ますます訳が分からない。技師の拡大鏡など別に珍しくもないだろう。ハクトのそれは確かに高級品の端くれではあるが、いじり回すほどの魅力があるとは思えない。  空腹に負けて甘い粥をすするハクトに、ティナが「おいしい?」と尋ねる。粥だと思わなければ決して不味くはないから、ハクトは小さく頷いた。ティナの顔に、かけっこで一番を取ったような笑顔が浮かぶ。しかしこれが彼女の作った粥であることを思い出し、なにか褒め言葉を、と考えるうちに、ティナの笑顔は引っ込み、当惑したような、言葉を探しあぐねているような表情に戻ってしまう。 「食べられるなら、いいの。ところでハクシャダイト、あなた家族は?」 「いません。父は他界しましたし、母はずいぶん前に妹を連れて家を出ていきました」 「恋人は?」 「いませんけど。それがどうしたって言うんですか」  技師学校の男女比を考えれば、十八歳前後の若者とはいえ、恋人がいる方が珍しい。よく遊ぶ連中はどこからか年頃の女の子を探して茶会をするようだが、ハクトはそういった連中とは無縁だった。ちなみに相棒のトウヤは、おとなしそうな顔に似合わず恋人を取っ替え引っ替えしていた記憶がある。いつも僕は本気なんだ、長続きしないだけ。寄宿舎の二人部屋で、迷惑顔のハクトに構わず熱弁をふるっていたのを思い出す。 「良かったわね。喜びなさい」  ティナは年齢不相応な冷ややかさと共にそう言った。一気に現実に引き戻される。 「ここはジュレスバンカートからはあまりにも遠いわ。あなたのことを心配する身内は、少ない方がいい」  ハクトが何か言おうとした時、ティナは皿をそのままに立ち上がった。 「食べ終わったら、皿は机の上に置いてちょうだい。用事があったら鈴を鳴らして。抽斗の中に入ってるわ」  そっぽを向いたままそう言って、彼女は部屋を飛び出していく。  鈴は金属製だった。いや、目を覚ましてからというもの、まだ硬木を見ていないような気がする。確かに金属は硬木より重厚感があり、手触りも硬木のようにざらついてはいないが、それにしても値段が違いすぎる。  皿を机上に置いて横になり、ハクトはゆっくりと視線をめぐらせる。扉と反対側の壁には、それほど大きくはない窓。戸は開け放たれている。窓の向こうに目をやるが、青い空とそこに浮かぶ虹柱しか見えてはこない。どこで見てもあの虹柱は変わらない。切り取られた景色の中にあるのはそれだけで、少なくとも建物は隣接していないようだ。喧噪も聞こえてこないから、大きな街ではないのだろう。  簡単に姿勢を変えられはしないのだから、寝転がる前にもう少し外を観察しておけばよかった。頭はそう訴えるが、体は譲らない。一度横になってしまった今では、どうやっても起きあがる気にはなれなかった。どうやら、自覚している以上に体力が落ちているらしい。そういえばひげを剃らなければ、と思う。動く方の手であごを撫でると、無精ひげが思った以上に伸びていた。  そのままうつらうつらしていると、扉が開く音がした。見れば、ティナが入ってくるところだ。目元が赤らんでいるような気もするが、ただの見間違いかもしれない。 「起こしちゃったかしら。ごめんなさいね」 「いえ、大丈夫です」  机の上の盆を手に取ったティナは、ふと思い出したように懐を探る。出てきたのは、紛れもなくハクトの拡大鏡だ。 「返しておくわ」 「ありがとうございます。他はともかく、これだけは無くすわけにいかないんで」 「高価いの?」 「それもありますけど」  安いか高いかと言われれば、間違いなく高い方に入るだろう。かといって最高級品というわけでもない。なにせ技師用の拡大鏡ときたら、上を見ればきりがないのだ。技師なんて大して儲かる職業でもないというのに、道具にやたらと金をかけたがる物好きはあとを断たない。  たとえば、ハクトの父のように。 「形見なんです。他界した父の」  ティナが言葉に詰まるのが、見なくても分かった。  とはいえ、拡大鏡がないと落ち着かない、とまで感じたのは初めてだ。ハクトにとって、これは父の形見である以前に片眼用三層式拡大鏡、たしか玻璃八式とか呼ばれるやつであり、それ以上のものではなかったはずだ。 「……壊れてない? だいじょうぶ?」 「ええ、おそらくは」  革帯と帯鉤に何カ所か傷がついているが、こちらは換えれば済むことだ。大切なのは右目を覆う部分。三枚の円板をそれぞれ上げ下げしてみるが、問題なく動いているようだ。ハクトは胸をなで下ろす。一番外側の硝子板にさえ傷がついていないとは運がいい。 「ねえ、技師の拡大鏡って何に使うの?」 「細かい部品を見るのに、これがないと目が痛くなるんですよ」 「へえ。三枚あるのはどうして?」 「拡大鏡は二枚目だけ。一枚目は保護用の硝子板で、三枚目は硬度鏡です」 「あ、そうか。硬度鏡がないと仕事にならないものね」  合点がいった、という様子でティナは頷く。 「でも、たぶんロカでは使う機会がないわよ」 「どうして?」 「だって」ティナは何気ない様子で答えた。「ロカの人は、硬木を使わないから」 「え……?」  拡大鏡を上げ硬度鏡を下げて、ハクトは部屋の中をぐるりと見渡す。普通ならひとつくらい硬木を示す明るい光が見えるものだが、視界は一面、むらのある暗い色だ。硬度鏡は通常の光を押さえ込み、硬木が放つ精気の波長だけを増幅して見せる。 「ね?」 「本当だ……すごい」  自然志向の物好きの中には、硬木などという「怪しげな」ものには頼らずに暮らしていこうという人間がいるそうだが、この家の住人もその手合いだろうか。感心するよりも先に、警戒心が頭をもたげる。 「フェルティナダ」 「どうしたの? 怖い顔しちゃって」 「ここは一体、どこなんですか」 「だから言ったじゃない、ロカって街よ」  むずかるように言って、ティナは椅子に腰掛ける。 「じゃあ、俺が流れ着いた川ってのはどこですか。トロップクランデは俺が出航したところより東にあるんです。西に流された俺が辿り着くはずがない」 「ああ、やっぱり船が流されたのね。発動機は?」 「壊れたんですよ」 「ハクシャダイト、あなた技師なんでしょう?」 「残念ながら、見習いです。そんなことより、質問に答えてください」  ティナは小首をかしげ、少し考えてから口を開いた。 「確かに、トロップクランデじゃないわよ。あれはバティ川。まあ、川と言っていいのかどうかは分からないけど。川の向こうは霧だから」 「……西区の……境界線の向こうですか?」 「川のことなら、そんなところよ。ここは安全だから心配しないで」  境界線の向こうは、風向きによっては霧が吹き寄せる危険な地域だ。そんなところに好んで住む人間もいないから、境界線のあたりにはほとんど街はないと聞いている。ロカがその辺境にあるのならば、ハクトが知らないのも無理はない。 「そういえば、あなた何歳?」 「十八です」  答えた途端、ティナは驚いたように口元に手を当てる。 「老け顔なのね。二十歳はとうに過ぎているかと思ったわ」  あまりにも真っ直ぐな物言いに、ハクトは思わず頭を抱えた。 「放っておいてください。気にしてるんです」  年上のはずの相棒と一緒にいても、同い年だと思われるか、下手をすればハクトの方が年上に見られてしまう。あれは相棒の方が童顔なのだと自分に言い聞かせてはいるが。  ハクトの相棒であるトウヤは、学校の女の子には「小動物みたい」と評されていた。虫を見ると悲鳴を上げ、嬉しいことがあると歌い出し、さらに嬉しいと踊り出すあたりが評価の原因だろうか。彼の態度の、どこまでが地でどこからが計算なのかは知らない。  ふと、耳の奥に水音がよみがえった。思わず頬が引きつる。そうだ、忘れてはいけない。掛け布団に爪を立て、小さく首を振った。 「フェルティナダ。俺のほかに、流れ着いた人はいませんでしたか」 「いないわ。誰か一緒だったの?」 「ええ、相棒が」  ティナは気の毒そうに眉をひそめ、「見つかったら教えてあげる」と答えた。 「どんな人? 名前は?」 「ビットクラーヤ・アガトゥス、愛称はトウヤ。黒い髪を、こう一本に編んでいます。確か二十歳だったと……ただ」 「ただ?」 「霧に巻かれたあたりで、俺を置いて湾に飛び込んでいましたから、同じ所に流れ着くかどうかは分かりません」 「なるほど。何にせよ、無事に岸に着いているといいわね」  黙ってうなずくことしかできない。ティナはそれ以上なにも言わず、盆を持って部屋を出ていった。  窓の外で、がたん、という音がしたのは、ティナの足音が聞こえなくなった頃だった。 「なんだ?」  思わず声を上げる。しばらく沈黙が続いた。しかし静かになった部屋の中で耳をすますと、窓の下に誰かがいるのが感じられる。息づかいが聞こえるわけではないが、今の音は明らかに外壁に何かがぶつかった音だ。その直後に聞こえたのも足音に違いない。ハクトは肘をつき、慎重に体を起こした。好奇心が痛みに打ち勝つ。 「あの、誰かいるんですか?」  声をかけると、窓の下端に丸いものがのぞいた。じっと見つめていると、それが黒い帽子をかぶった人間であることが分かる。黒い帽子の頭は、そっと窓枠から顔を出した。 「こ、コンニチハ」  上擦った女の声でそう言われ、ハクトは「こんにちは」と返す。人影は帽子を取った。つばに隠れて見えなかった顔が露わになる。茶色い髪に白い平紐を結んだ少女だった。飾りではなく、おそらくは実用的な理由で髪を留めているのだろう。ぱっちりした目が印象的だ。年はハクトとそう変わらないように見える。ハクトと目が合うと、少女は歯を見せて笑った。 「いい、お天気、デスね」  唇から漏れる言葉は発音が怪しい。最南区か北区島嶼部の、それも最果てに住む人間が、方言を押し隠して中央区の言葉を喋ろうとしているような雰囲気だ。 「そうですね」  ハクトが答えると、少女は表情を輝かせる。おもちゃを見つけた子供のような様子で、窓枠に片手をかけた。 「わタし、シア。あなタが、ハクト?」 「そうですよ。ハクシャダイトです」  いきなり愛称で呼ばれ、ハクトは少しばかり面食らう。 「アクサタイト?」 「ハクシャダイト」 「ハクサ……?」  そこでやっと、ハクトにも合点がいった。 「いえ、いいです。ハクトです、ハクト。よろしくお願いします、シア」 「よろシク、お願いシマす!」  シアは楽しそうに手を振った。  つまるところ、彼女にはハクトの名前が発音できないのだろう。だいたい、都会の人間は本名が長い。都会ことばに苦労する辺境の人間に、装飾音の多い本名は発音し辛かろう。劇や小説で見る南部訛りは、装飾音をことごとく潰す。ティナもそれを分かっていたから、最初に愛称を聞いたのだ。彼女たちにハクトの名前を伝えるために。そう考えれば合点がいく。  ハクトが何か言おうと口を開いた時、シアが何かに気付いたように表情を変えた。口元に手をやり、「ナイショ」とささやいてから、彼女は窓枠の下に消える。その頃には、廊下を歩いてくるティナの足音が聞こえ始めていた。  予想通り、扉が開いてティナが顔を出す。手には陶製の水差しを持っていた。 「水を持ってきたわ。……どうしたの?」  シアの声が脳裏によみがえる。あれはきっと、言うなという意味なのだろう。 「いえ、何も。それにしても、ここはずいぶん静かなところですね」  ティナはうなずき、水差しを文机の上に置いた。窓に向かうハクトの視界をさえぎるように、置いてあった椅子に腰掛ける。 「そうね、田舎だから。畑しかない街だもの。ほら見て、あれも」  改めて窓の外に目をやった。身を起こしているせいで、さっきよりは広い範囲が見えている。二十歩ほど行ったところに細い道があり、そこまでは背の低い草がまばらに生えていた。道の向こうは森で、二階建ての家屋ほどの広葉樹が連なっている。よく見れば、一定の間隔をおいて並んでいるようにも見えた。 「畑? あの木、林業のものじゃないんですか」 「あれは畑よ。秋になったらすごいんだから。ティナもはじめて見たときは驚いたわ」  その時の情景を思い出したのか、ティナは窓の外を見て笑う。せわしなく動くその瞳に、秋の実りが映っているかのようだ。 「フェルティナダ」 「なあに?」  ここはどこですか、という問いを、ハクトは喉元で呑み込んだ。ティナの目が物憂げに伏せられたせいかもしれない。代わりにもう一つの、もっと差し迫った質問をぶつける。 「便所はどこでしょうか。あと、杖かなにか貸していただけると有り難いんですけど」  ティナはぱっと顔を赤らめ、「ごめん」とつぶやいて走り去った。 「ありガと、ごザイます」  窓の方からシアの声がした。結果的に、隠れていた彼女を助けることになったのかもしれない。シアはひらひらと手を振って「サヨナラ!」と言い残し、これまた全速力で走っていった。 「トウヤ、俺、どうすりゃいいんだ?」  返ってくるのは、もちろん沈黙だけ。  遠くでティナが叫んでいるのが聞こえたが、内容までは分からなかった。  家の裏手、急ごしらえの屋根の下には井戸があり、便所にも風呂にも台所にも、そこから水が引かれているようだった。蓋だけでなく、小屋のような屋根があるのは雨の日のためだろう。足下には砂利が敷かれ、周囲はついたてで囲われていて、外の様子は窺えなかった。ついたての隙間から光が射し込んでくる。便所から出たついでに、顔を洗うことにした。少し舐めてみたが塩水ではない。剃刀はないかと聞いてみたが、ひげを剃るようなものはないとの返事だった。無精ひげを気にしながら、右手一本でつるべを引き揚げる。  それにしても今どきつるべで水を汲むとは珍しい。故郷では、たいてい水を汲んで塩を飛ばすところまで、すべてを機械まかせにしている。地下水と、塩を抜くため加熱した蒸気との温度差が、また汲み上げ用の歯車を回すのだ。  ハクトが寝ていた物の少ない部屋とは違い、通ってきた廊下や居間にはにぎやかに小物が置かれていた。ただ、天井と同じくどこもあまり良い造りになっているとは言えず、扉や壁面の格子飾りもぞんざいで、柱も木目がむき出しになっている。  井戸の脇に左足を投げ出すようにしゃがみ、額の包帯を外して顔を洗った。水をかぶったこめかみの辺りと、左頬の耳に近いあたりがぎゅっと痛む。鏡がないので気づかなかったが、額のほかにも傷を負っていたらしい。その額の小さな切り傷は、もうかさぶたになっているせいか痛まなかった。拡大鏡の帯が深い怪我から守ってくれたのだろう。 「そうだわ、ハクシャダイト」  井戸小屋の隅にあった籠から、ティナが出してきたのはハクトがもと着ていた上着だった。畳まれていたそれを惜しげもなく広げ、ハクトの前にかざす。左の袖、上腕のあたりがかぎ裂きに破れていた。腰までの丈の上着だが、左の裾も大きく欠けている。 「血はいちおう落としたけど、ちょっと染みになったところもあるわ。繕ったら着る?」 「ええ」 「こっちは無理よね。血も落ちないし」  もう一つ、出してきたのは一瞬ただのぼろ布に見えたが、よく見れば左膝のところで千切れた服の残骸だった。右膝にまで血が飛び散っている。思わず自分の足に目を落とした。上着の下に着せられている裾の長い袷は、膝上から足首までを固める添え木の邪魔をしないためのものだろう。  目覚める前に見た、あの溺れる夢を思い出した。 「そうですね。……そういえばフェルティナダ、俺が気を失っている間、着替えなんかはどうしてたんですか」  ふと嫌なことを思いついて、おそるおそる聞いてみる。ティナは笑って肩をすくめた。 「近所の男の子が手伝ってくれたわ。ティナ、男の裸なんか見る趣味はないから」 「そ、……そうですよね」  何を聞いているんだ、俺は。まだしも動く右手で頬を掻くと、伸びた爪が痛かった。  気がつけば朝になっていた。いや、窓からの光がずいぶん壁の近くにあるから、もう昼近いのかもしれない。  杖は文机の端に立てかけてあった。寝台からは少しばかり遠すぎる。そのあたりは気を利かせてくれても良さそうなものだ。杖を持つべき左手は、いまだ動かすたびに痛むのだから。これは暗に呼べと言っているのだろうか。  鈴を鳴らそうとして、はたと手を止める。使用人を呼びつけるお坊っちゃまのようできまりが悪い。昨日見た限り、明らかにここはただの一般家屋だ。病院ではない。そもそも、この田舎に病院などというものがあるのかどうかも怪しかった。しかしとにかく、ハクトがただの居候であることは間違いないように思えた。 「さて……」  もう一度眠るという選択肢もある。天井を眺めながら緩んだ留め針をにらんでいると、窓枠を叩く音がした。首だけをめぐらせてそちらを見ると、シアが立っている。長いまつげに縁取られた目で、ハクトの顔をまっすぐ見つめてきた。 「コンニチハ!」  彼女がまっすぐ立って、ようやく首から上が見える高さなのだろう。ハクトはゆっくりと身を起こしながら、「こんにちは」と答えた。 「お元気デスか?」 「いや、あんまり……」 「あんまり?」 「元気ではないです」 「元気では、ない」  シアはそうくり返し、しばらく考えてから「あっ」と声を上げた。 「痛い?」 「ええ、まあ、ちょっとは」 「ちょっとは、痛い?」 「はい」  シアは戸惑ったように、窓枠にかけた自分の指先を見つめている。手は土で汚れていた。農作業でもしていたのだろうか。技師の家で育ったハクトは畑に携わった経験がないので、その辺りはよく分からない。 「シア」  おそるおそる声をかけると、シアは一瞬ハクトの方に目をやって、また逸らしてしまう。 「どうして、ティナには、ナイショなんですか?」 「あ……なぜなら、ティナ、わタしがハクトと会う、は、ダメだって言っタ、だから」 「どうして?」  シアは黙って首を振った。 「そうか。ありがとう」 「は、ハクト」  ハの音を慎重に発音しながら、シアはおずおずと呼びかける。 「ゴメンナサイ」  ハクトの返事を待たずに、彼女は窓のそばから姿を消した。  しばらくして、扉が遠慮がちに開けられる。一瞬シアかと期待したが、入ってきたのはティナだった。 「おはよう。起きたなら、それ鳴らしてくれればよかったのに」 「いえ、今起きたところですから」 「ならいいんだけど。いま朝ご飯持ってくるわ。食べられる? 少しは西区らしい味付けになったと思うの」 「だいじょうぶ、頂きます」  頷いて出ていこうとするティナを、ハクトは「ちょっと」と呼び止めた。 「この家、ほかに誰か住んでるんですか? ご家族とか」 「家族じゃないけど、同居人がいるわ。今はちょっと忙しくて、こっちには来られないんだけどね」  それでは、ティナの家族はいないのか。事情を問うていいものか、少し悩んでやめた。その前に訊くべきことは多い。 「男の人?」 「女の人よ。どうして?」 「あ……ええと」  思わずティナの顔から目をそらすと、自分が着ている上着が目に入った。 「この服、お借りしているならお礼をしたいと思いまして」 「ああ、それは地主のおじさんに貰ったの。太っちゃってもう着られないから、ハクシャダイトにあげるって。ほら、昨日言った近所の男の子がいるでしょう、そのお父さんよ」 「そうですか……それはどうも、お礼を言っておいてください」  それから、何気ない風を装って続ける。 「ところで、その同居人のお名前をうかがってもいいですか」 「シアよ。正式名なんかは気にしなくていいわ」  覚えておきます、と返しながらも、ハクトは頭の中の混乱を整理できずにいた。  とにかく暇だった。この左半身を脱ぎ捨てられたら、今すぐにでも外に飛び出せるだろう。ハクトは目を閉じるが、どうもうまく眠れない。窓からの日差しは、まぶたを通り抜けて眠りを妨げる。  だから窓枠を叩く音がしたとき、ハクトの思いは一つだった。  暇がつぶせる。  起きていることを示すために、無事な右手を振ってみせた。顔をしかめながらも上体を起こすと、窓の外にはシアが立っている。 「ゴメンナサイ、ハクト、痛い?」 「だいじょうぶ、元気です。そんなに痛くないですよ」  シアは少し考えてから、「ハクトは、元気だ!」とうなずいた。 「ハクト、これ、見て」  シアが掲げて見せたのは、一羽の鳥だった。鶏よりは一回り小さい。両羽を手で押さえられた茶色の鳥は、首を伸ばしてぴいぴいと鳴いている。  鳥を見せびらかすかのように、シアは笑っている。その瞳からは、子供のような好奇心が感じられた。ハクトの反応を観察するように、その目はしっかりと彼を捕らえている。 「鳥ですか?」 「はい、鳥デス」  そして無造作に手を離した。  ハクトの目が丸くなる。 「うわあっ!」  驚いたはずみに体を逸らすと、左手に体重がかかる。ふたたび悲鳴を上げたハクトをあざ笑うように、鳥はシアの頭上へと飛んでいった。そしてそのまま、木々をかすめて空に消える。 「な、な、何ですか! 鳥? え、だって、鳥……」  シアの顔に会心の笑みが浮かぶ。彼女はすぐさま身をひるがえし、さよならも言わずに走り去った。ハクトの背後で扉が開く。 「どうしたの?」 「と、鳥が……フェルティナダ、何なんですか、ここは!」  涙目で訴えるハクトを見て、ティナは状況を察したようだった。小さく肩をすくめる。 「飛んだのね?」 「そう! 飛んだんです! 虫みたいに!」  左肩の痛みも忘れて叫ぶハクトを、ティナはおかしそうな笑い声で迎える。母が息子にするようにハクトの背中を抱き、「だいじょうぶ」とささやいた。 「ロカでは鳥は飛ぶものよ」 「意味がわかりません!」 「見たんでしょう? あれは飛ぶ種類の鳥なのよ。鶏とはぜんぜん違うの」 「なんで飛ばなきゃいけないんですか。そりゃ鳥は跳びますけど、下りてこないでずっと飛んでいくなんておかしいですよ!」 「鳥だって進化するわよ。飛ぶ鳥がいたっておかしくなんかないわ。ほら、昔話にもいるじゃない、空を飛ぶ鳥」  納得のいかないハクトを、ティナは辛抱強くなだめる。ハクトはそんなティナの肩を掴んで揺すぶった。痛い、とティナが声を上げる。 「俺だって痛いんですよ!」 「ちょっと、やめてってば! 八つ当たりは良くないわよ!」  とがめるようなティナの声。そこで何かが吹っ切れた。  上半身から倒れ込むように、ティナを床に押しつける。板張りの床にティナの金髪が広がった。掴んだ肩は想像以上に細い。頭の隅に追いやられた理性が、子供相手にうっぷんを晴らすなと訴えている。それを退け、「いい加減にしてくれ!」と叫んだ。手を上げる。 「やめて! 放しなさい、ハクシャダイト!」  ティナが叫ぶのと、頭を殴られるのはほぼ同時だった。左肩をしたたかにぶつけ、声も出せずにうずくまる。一瞬白くなったあとの視界に入ってきたのは、重そうな靴を手にしたシアだった。 「だめ、ハクト」  自分の右靴を手に、シアはハクトのそばにかがみ込む。口を開きかけ、少しためらったあと、ティナに早口で何かを言った。よく聞き取れない。 「ハクシャダイト。もうこんなことをしないと約束しないなら、もう一回殴るそうよ」 「……すみません」  殴られた右の側頭部がずきずきと痛む。手をやると額の包帯に触れた。これまで傷があったのは左側だから、傷口が開いたりする心配はないだろう。そう考えて、小さく息をつく。 「気持ちは分かるわ。ティナも最初はそうだったもの」 「そう、って」 「シアに――ああ、彼女がシアよ――いろいろ、思い出すのも恥ずかしいようなことをやったわ。まあ、今のはさすがに驚いたけどね」  ティナは起きあがり、服についたほこりを払う。ハクトは寝台の側面に寄りかかるように上体を起こした。シアはどうしたものかと二人を見ていたが、やがて脱いでいた自分の靴を履きはじめる。 「だから、ティナはハクシャダイトを怒らないわ。謝らなくてもいい」 「すみま……ありがとうございます」  靴ひもを結んでいたシアが、「ゴメンナサイ」と言葉を漏らす。ティナが小首をかしげた。 「わタしが、鳥、見せタから……」  ティナの唇が引き結ばれる。シアを睨みつけたあと、「だから止めたのに」とつぶやいた。シアはうなだれる。はじめてそばで見る彼女は、思ったよりも背が高かった。ティナと比べるせいかもしれないし、底の厚い靴のせいかもしれない。まっすぐに伸びた髪は硬く、ティナのふわふわした髪とは対照的だ。裾の広がった子供のような服は、洗濯のしやすそうな生地で作られていた。 「フェルティナダ」  肩を落とすシアは、うつむいたまま顔を上げない。ハクトが彼女の顔を見ようとすると、ついと顔をそむけられた。 「ここがどこなのか、教えてもらえませんか」 「だからロカよ。言ったじゃない」 「ここがたとえ西区の果てだとしても、車と鉄道を使えばジュレスバンカートまで一週間もかかりません。家族に覚悟がいるほど遠い場所ではないでしょう」 「だって西区じゃないもの。だからって中央区でも南区でも最南区でもないわ」  ティナはため息をついた。シアが何か言う。訛りがきつすぎるのか、ハクトにはまったく意味が取れない。ティナは二言、三言返事をして、眉をひそめながら頭を掻いた。結った髪が崩れる。 「はぐらかさないで、はっきり教えてください。分からないから不安なんですよ」 「分かったらもっと不安になるわよ」 「知らないよりは知っている方がいいに決まってるじゃないですか」  思わず声を荒げそうになって、ハクトはひとつ深呼吸する。本当に、どうかしている。  たいてい、ハクトは騒ぐ相棒を止める役だ。こんな課題は無理だと思っても、この失敗をどう取り返したらいいのかと悩んでも、自分以上に焦るトウヤを見るうちに不思議と落ち着く。あの男は一見するとまともなのに、緊張するとすぐ指先が震えるのだ。おそらく彼は技師には向いていない。なのにこれでは、そんな相棒よりもよほどたちが悪い。トウヤ、とハクトは心の中でつぶやいた。  お前、意外にいいやつだったんだな。  複雑な表情を浮かべるハクトをよそに、ティナとシアは何ごとか話し合っている。 「……ハクシャダイト」  やがてティナがゆっくりと振り返った。 「ちゃんと説明するから、笑わないで聞いてね。冗談なんじゃないんだから」  ハクトがうなずくと、シアは開いたままの扉から廊下へ出ていった。一度遠くなった足音は、すぐにまた近づいてくる。その間にも、ティナは念押しを続けた。 「ティナは嘘なんてつかないから。ハクシャダイトを馬鹿にしてるわけじゃないのよ」  戻ってきたシアの手には、丸めた大きな紙が握られている。心なしか、その顔は緊張しているように見えた。ハクトは手をついて右足一本で立ち上がり、あらためて寝台に腰を下ろす。ティナもかたわらの物入れの上に座った。 「シア」  ティナが手を出し、シアから紙を受け取る。広げると、それはどうやら地図らしかった。だが、見慣れた地図と違って横に長い。かといって、特定の区を切り取ったものでもなさそうだ。 「これ、何ですか?」 「地図よ」 「それは見れば分かりますけど……」  ふう、とティナは息をついた。 「これは、『深緑の都』ラサの全図」  反射的にハクトは「え?」と尋ねかえす。 「ティナ達が住んでいた『紺碧の都』ヴァナは、この地図には載ってないわ」 「どういう、意味ですか」 「ここはね、ハクシャダイト……信じられないだろうけど」  異国の地図を掲げたまま、ティナは告げた。 「『霧の向こう』よ」  霧の向こうは、どこでもない場所。死の霧は世界を、紺碧の都を包む。  だから、霧の向こうなんて、あるはずがない。  ティナの言葉が右から左へ抜けていく。ティナがあれだけ念押ししたのもうなずける。何度も言われたのに、それでもまだ、騙されているという思いが抜けない。  地図をなめるように見てみても、知った地名は見あたらない。それどころか文字すら分からない。見慣れた文字も多いが、どう読むのか、どういう意味なのか、見当もつかない文字がいくつも混じっている。  まず目立つのは、湾がないこと。ティナがロカとバティの場所を教えてくれたが、それらは右の上隅の方にあった。バティのほかにも川は数本あったが、すべて霧の向こう、地図の外へ流れていってしまう。ティナにあらためて尋ねてみたが、やはり湾はないそうだ。  地図の下端は霧ではなく、山脈をしめす記号で縁取られている。左下には大きな湖。地図の中央にはひときわ大きな街が、ほかとは違う赤色で記されている。赤色で記された街は、右下と左上にも一つずつあり、全部で三つ。太い点線が、その赤い街を一つずつ含むように土地を三分割していた。 「この赤い街が、お城があるところ。でもお城に議会はないの。それぞれのお城には偉い人がいて、その人たちが好きに領地を治めてるのよ」 「議会がなくて、どうやって都が治まるんですか?」 「さあね。難しいことは分かんないわ……それにしたって、ずいぶん冷静じゃない?」 「驚くほどの気力が残っていないんです」  寝台ごと世界が揺れているような錯覚がある。どこか挑発するような気配をはらんだティナの言葉も、さっきのように神経を逆撫でしてはこない。薄い布を一枚へだてたところから、とげの生えた木の実を投げつけられているような気分だ。鬱陶しいが、どうでもいい。  その代わり、シアの視線が絡みついて離れない。  ティナを守る警備員のように、シアは彼女のそばに佇んでいる。表情は穏やかだが、その視線の中にひそむ不信の念は、無視するには少々重すぎる。自分がまいた種とはいえ、どうも釈然としない。 「なにか聞きたいことは?」 「ありすぎて、何から聞いていいのか分かりません」  正直に答えると、ティナはさもありなんと頷きながら立ち上がった。 「実際に、その目で見てみるといいわ」  空はよく晴れていた。南の空には見慣れた虹柱が見えたが、その根本、地平線に山々が連なっているのは異様な光景だった。  荷運び用の大型一輪車に乗せられたハクトは、ぽかんと口を開けて周囲の光景に見入っている。一輪車を押すシアは、楽しそうに畑へと視線を送っていた。ティナはその横で、見えるものひとつひとつに解説を加える。 「あれが南の山脈。地図にあったでしょう」 「ずいぶん背が高いんですね」  一輪車は畑のあぜ道を通っていた。家の前にあった畑という名の森はすでに通りすぎ、左右には背の低い作物が植えられている。葉を食べる野菜だろう。  ぐるりと首を巡らせても、動くものが見あたらない。ずっと遠くに二棟の建物が見えた。小さい方が隣家、大きい方はその家の倉庫だそうだ。木造の建物は小さい方が二階建て、ということは倉庫はさらに背が高いというわけだ。畑のない区画は、膝くらいまでの高さの草で覆われている。黄色い花はヴァナでも見慣れた雑草だ。ぽつりぽつりと木の生えた区画があり、遠くへの視界をさえぎる。 「あとで家の反対側にも行ってみる? 地主さんの家と、それから広いくるみ畑があるわ。ここのくるみの木はすごく大きいから、本当に自然の森みたいに見えるわよ」 「地主さん……そうだ、この上着のお礼をしないと」 「そうだったわね。じゃあ、夕方にでも改めて挨拶に行きましょうか。この時間は、まだミキが帰ってきていないから」 「ミキ?」 「娘さんよ。三人きょうだいの二番目」  ミキの名に反応して、シアが首をかしげてみせる。ティナに会話の中身を説明され、シアは納得したようにうなずいた。 「ミキはいい子だから、きっとハクシャダイトは気に入るでしょう、だそうよ」  ハクトにシアの言葉を伝えてから、ティナはシアに何ごとか耳打ちする。シアは驚いたように声を上げた。 「何を言ったんですか」 「ハクシャダイトならミキのいいお父さんになれる、って言うもんだから、ハクシャダイトはまだ十八歳だって言っただけよ」  シアはまじまじとハクトの顔を見ながら「じゅう、はち?」とつぶやく。動揺のためか一輪車が揺れた。転倒防止の杭が地面に当たり、ハクトの体に振動を伝える。そんなに驚かれてはきまりが悪い。ハクトは小さくうなずいた。シアの目からは、もう先刻の警戒するような色は消えている。代わりに顔を出すのは、抑えきれない好奇心だ。 「ミキちゃんは何歳なんですか」 「十歳」  ハクトは思わず肩を落とす。いったい何歳に見られていたのだろう。  木々の間を抜け、隣家の方へと近づいていくと、やがて広い道に出た。草に隠れて遠くからでは見えなかったのだが、一輪車が通れる程度には整備されている。敷石も瀝青による舗装もないが、むしろこの農村にそんなものは不要だろう。  発動機の動作音の代わりに、鳥と虫の鳴き声が聞こえる。家を包み込むのも冷却管の束ではなく、よく茂った蔦だ。一輪車に不規則な振動が伝わる。春の風が畑の上を渡ってきた。潮の香りはしない。 「こういうのも、悪くないですね」  太陽に目を細めながら、ハクトはつぶやく。ティナにその言葉を伝えられたシアが、おずおずと声をかけてきた。 「ハクトは、ここ、好き?」  うなずいたハクトに、シアはほっとしたような笑顔を向けた。けれどそれはすぐに、困ったような表情に変わる。 「ゴメンナサイ」  そう言ってから、ティナに長い言葉を伝えた。ティナも難しい表情でそれを訳す。 「いろいろ、ハクシャダイトに謝りたいことがある。あなたがロカを気に入ってくれたことはとても嬉しい。ティナは、……ずっと、帰りたいって言ってたから、だって」  一輪車が木陰で止まった。畑ではなく、道ばたにぽつんと生えた広葉樹だ。真上から太陽に照らされて、影は小さい。これから少しずつ伸びていくのだろう。シアは一輪車のながえを握ったまま、ゆっくりと口を開いた。ティナは淡々と、ハクトとシアの間で通訳を務める。 「私の名前はシア・ベリー。このあいだ十七歳になったところ。出身はロカではないんだけど、研究のために引っ越してきたんだ。ここからなら、馬と鉄道馬車で、霧沿いのたいていの場所には行けるから」  ティナの口を通したシアの言葉は、ざっくばらんで少年のようだ。それが正確な雰囲気をくみ取ったものなのか、ティナの解釈をいれた結果なのかは分からなかった。鉄道馬車というのが何なのかは知らないが、馬が引く鉄道かなにかなのだろう。発動機を使わないものを鉄道と呼んでいいのかどうかは判断がつかない。 「研究?」 「そう。私は『霧の向こう』についてずっと研究してるんだ。学校では止められてたから、思い切って辞めてきちゃった。親にはすっごく怒られたけどね」  それはそうだろう、とハクトはうなずく。「霧の向こう」の研究に熱中するのも大したものだし、そのために学校を辞めるというのも、ハクトの感覚ではとんでもないことだ。いったい、それからどうやって暮らすつもりなのだろう。学校や組織を通さずに得られる仕事も、こちらにはあるのだろうか。見かけによらず、なかなか大胆な少女らしい。 「ハクシャダイトとティナを引き取ったのも、正直言えば研究のため。一年前にティナに会えたのはたまたまだけど、ハクシャダイトのことは、ずっと待ってた」 「どういう意味ですか」  ティナはわずかに視線を逸らした。その続きを伝えたくないとでも言うように。 「バティ川に堰を作って、水の流れをおかしくしたのは私。それがきっと、ヴァナに影響したんだと思う」  あの湾の流れを思い出す。いつもなら緩やかなはずの流れが、あの日は異常に強かった。 「だいたい月に一度、バティ川は大きく逆流するんだ。その日は水流が荒れる。だから私はたくさん大きな木を沈めて、その流れを弱めて、別の所にぶつけようとした。そうすれば、霧の向こうから色んなものが流れてくると思ったんだよ。記録を調べたら、変なものがバティ川に流れ着くときは、いつも理由があって逆流が弱まった日だったから」  だから、とシアはうつむく。 「ヴァナの物がバティ川に流れ着けば、それはヴァナとラサが繋がっている証になるでしょう。私は、霧を通してヴァナとラサが繋がってるって信じてるの。確信を持ってるって言ってもいいわ。だけど、決定的な証拠がなかった。ティナをヴァナに帰す方法もちっとも見つからなくて、私はすごく焦ってた」  シアの肩が震える。ハクトはながえを握るシアの手に自分の手を添えた。指先が白くなるほど力の入った手は、緊張のためかひどく冷たい。ティナが「ごめんなさい、ハクシャダイト」とつぶやいた。それはシアの言葉ではない。 「つまり、そうやって計画通りに流れ着いた『変なもの』が、俺だったというわけですか」 「本当に、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだ」  ゴメンナサイ、と、シアはヴァナの言葉で繰り返した。 「全部、私のせいなんだ。ハクシャダイトがここに来ちゃったのも、大怪我したのも。ハクシャダイトの友達も、私のせいで大変なことになってしまった。霧を吸ったら、生き物は死んじゃうか、そうでなくても人形みたいになっちゃうのに。ヴァナでもそうでしょう?」  最後の質問は、訳しながらティナがうなずいてみせた。それはどちらの都でも変わらないらしい。それにしても、とハクトは考える。故郷であるヴァナとここラサ、二つの都が繋がっているとはどういうことだろう。どちらもお互いを「霧の向こう」だと考えていて、存在そのものを知らないか、知っても信じてはいない。もちろんそのはずなのに、ハクトは今、「霧の向こう」にいる。シアにしてみても、「霧の向こう」の住人を相手に喋っているわけだ。  自分で言ってみても、さっぱりわからない。これはどこの夢物語だ。  だからこそ、シアに「俺は大丈夫です」と笑いかける余裕があるのだろう。  さっきティナに言ったことも真実だ。そもそも、驚くほどの気力が残っていない。 「シア」  トウヤがここにいたら、どんな反応を見せるだろう。もしかしたら彼も今頃、どこかで驚いているところかもしれない。いや、きっとそうに決まっている。たしか運は強かったはずだ。自信も確証もないが、そうに違いないのだ。だからそんなトウヤのために、自分が落ち着かなくてはならない。ハクトはシアの目を正面から見つめた。思うように動かない体がもどかしい。 「済んでしまったことは、仕方がありません。だからお願いします、ここのことを教えてください。ティナも一緒に、ラサへ行く方法を探しませんか」  シアの顔に、ぱっと笑みが浮かぶ。取っ手から手を放し、ハクトの首に抱きついた。一輪車が揺れ、車輪のない側に傾いた。金属製の支えが地面を叩き、箱がばらばらになりそうな振動が伝わる。勢い余って柄の側へ押し出されたハクトは、シアの腕の中に抱きとめられるかたちになる。シアはそんなことは意にも介さず、「アリガトウ!」と叫んだ。 「ここのこと、まず何を教えたらいいかな?」  耳元でささやかれる言葉は、やはりティナの通訳なしではまったく分からない。ティナは苦笑しながらその言葉を訳してくれる。ハクトはティナの方を見やり、肩をすくめた。 「まずは言葉でしょうね」  シアに伝える前に、ティナは片目をつぶって「任せて!」と笑った。 「ただし、もうか弱い乙女を傷つけるようなことしちゃ駄目だよ」 「もちろんです。俺は紳士に生まれ変わりますから」  ティナがその言葉をシアに伝える。女二人のさざめくような笑い声につられて、ハクトも声を立てて笑った。  そうすれば、この声を聞きつけて、誰かが助けに来てくれるような気がした。